校長の道徳授業

歴史を訪ねて3 ペリリュー島の戦い③

2011.08.05

今回の旅ではその後のペリリュー島やパラオがどうなったかを見ていきたいと思います。

昭和19年(1944)11月27日、君のヒイおじいさんの命日となった日本軍ペリリュー島守備隊玉砕の日からしばらく日がたちました。ペリリュー島の周囲の海を埋め尽くしていたおびただしい数の米海軍の艦船も今は一部を残して引き上げ、南太平洋の紺碧の空を覆っていた真っ黒な弾幕も消え、耳を覆わんばかりのすさまじい轟音もなく、ひたひたと海岸に打ち寄せる波の音が、平和でのどかな本来のペリリュー島の時の流れを取り戻したかのようです。

パラオ本島に避難させられていたペリリュー島の住民の皆さんが三々五々帰島してきました。彼らの住んでいた家は跡形もありません。それどころか島の形そのものがまったく原形をとどめていません。そしてすさまじい戦闘の後の焼け爛れた残骸と日米双方の戦死者のおびただしい数の遺骸があちこちに無残な姿をさらしています。米軍の兵士が米軍戦死者の遺骸を集めては火葬しています。その状況を帰島した島民の皆さんが呆然と眺めています。米兵は日本軍兵士の遺骸には憎しみをあらわにして足蹴にしたり、おしっこや唾をかけたりしています。

それを見ていた島民の一人が米兵が居なくなった隙に遺骸に駆け寄って泣き叫んでいます。知り合いの兵隊さんだったようですね。これがきっかけでペリリュー島民の皆さんたちが米兵の居ない隙に日本軍兵士の遺骸を集めて火葬し始めました。中には手を合わせて念仏を唱える人も居ます。そして遺骨は一箇所に集められ島民の手によって手厚く弔われることが出来ました。その墓地は今も島民の人々の手によって塵ひとつ無く清掃されています。しかし潰れた洞窟陣地の中などで戦死された多くの遺骨は戦後60年以上たった今でも手付かずのままであることを忘れることは出来ません。

さて「勇志号」は昭和19年11月から大急ぎで現代までのペリリューとパラオのその後の歴史を追いかけていきましょう。

昭和20年8月15日大東亜戦争終結。昭和22年パラオは国連の委任を受けたアメリカの統治下に入る。昭和56年パラオ自治政府樹立、そして平成6年(1994)悲願かなってパラオ共和国として独立し、国連に加盟しました。

パラオ自治政府樹立に際して自治政府は、国民からパラオ国旗のデザインを募集しました。応募したデザインのほとんどは「日の丸」だったそうです。パラオの人々が歴史の一時期日本の統治下にあったことが誇りとして受け止められていることの表れです。しかし日の丸ではパラオの国旗になりません。パラオ自治政府は「青地に黄丸」のデザインに決定しました。

このときのパラオ政府関係者の話を聞いてみましょう。

「青地にしたのはパラオが太平洋に囲まれた島であることを意味します。黄色の丸はお月さんです。月は太陽の光を受けて輝きます。わたしたちパラオの国民にとって日本は太陽です。日本という太陽の恵みを受けてパラオは存在すると言う意味をこのデザインに込めました。ですからパラオの国旗はパラオ全国民の日本への尊敬と愛情のシンボルなのです」

さあ、勇志号はいよいよ独立なった現代のパラオ共和国ペリリュー島へ行ってみましょう。ペリリュー島の真ん中にペリリュー神社がありますね。小さな鳥居と小さな祠ですが、戦後再建されました。その神社の前にある石碑に一編の詩が刻まれていますね。読んでみましょう。

諸国から訪れる旅人たちよ

この島を守るために日本軍人が

いかに勇敢な愛国心を持って戦い

そして玉砕したかを伝えられよ

米太平洋艦隊司令長官 ニミッツ

ニミッツ提督はペリリュー攻防戦のときの米軍の最高指揮官だった人物です。敵の総大将が日本軍の勇気を称えて寄せた詩です。米軍にも多くの損害が出ました。しかしそれにもかかわらず日本軍の勇気と愛国心の高さを称えるニミッツ提督の「騎士道」の崇高さに感服させられます。

ニミッツ提督が最も尊敬していた歴史上の人物は、日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させた日本の連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥だったそうです。

以上で3回にわたったペリリュー島の戦いを訪ねる旅は終わりです。感想は?

「校長先生、ヒイおじいさんはどんな思いで戦い死んでいったのでしょうか。そして何故あんなにむごたらしい戦争を日本は始めたのですか。教えてください」

「私が教えると言うことではなく、引き続きしばらく歴史探訪の旅を続けよう。その中で今の質問の答えは君自身が探せるはずだから」                 以上


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