校長の道徳授業

歴史を訪ねて2 ペリリューの戦い②

2011.07.28

通常3割の死傷者を出すとその部隊は壊滅したとみなされるそうです。なぜなら残った兵士は、極度の恐怖と神経衰弱などで戦闘能力をなくしてしまうからです。ペリリュー守備隊は最初の戦闘で8割の死傷者を出しましたが、その後も勇敢に戦いを続けました。君の故郷の先輩たちはなんと勇敢な人たちだったんだろう!!

君のヒイおじいさんが今から切り込み突撃に行かれるところだ。昼間は敵の艦砲射撃を洞窟陣地の中で避け、夜になると敵の陣地に切り込み攻撃を繰り返して戦ったんだ。切り込み攻撃というのは夜陰にまぎれて敵陣に忍び込み、軍刀で敵を襲い、最後は手榴弾で敵もろとも自爆する決死の攻撃でした。米軍はこれには恐怖のどん底に突き落とされたのです。

ヒイおじいさんの切り込み隊は壊滅した米海兵第1連隊の後を受けた第7連隊の陣地を目指したけれども、この部隊も昼間の戦闘と毎夜の切り込み攻撃の前に47%の損害を出して壊滅し、引き上げた後でしたから、切り込み攻撃は不発に終わりました。無事でよかった!

第7連隊に続いて第5連隊も同じく10月11日には43%の損害を出して壊滅し、ここに米軍最強を誇った第1海兵師団は壊滅し撤退に追い込まれました。

第1師団の後を受けた第81師団は持久戦に作戦を変えました。生き残った日本軍は、まさに生き地獄の実態でした。飲む水も食糧も無く、もちろん戦うための弾薬すら底をついていました。

ここは日本軍の洞窟陣地の中です。何とか戦える兵はわずかに50数名しかいません。ヒイおじいさんが負傷した部下を介抱しながら励ましていらっしゃるよ。周りは負傷者ばかり、苦しそうなうめき声があちこちから聞こえてきます。もう何日も飲まず食わずです。空腹のあまり自分の負傷した大腿部にわいた蛆虫を手でつかんで食べたりしています。

11月24日、米軍はいよいよヒイおじいさんがいらっしゃる日本軍守備隊の最後の陣地に迫ってきました。中川大佐が残ったもの皆を集合させました。中川大佐の訓示です。

「皆良く戦ってくれた。敵上陸以来70日、こんなに立派な戦いが出来たのは皆のおかげだ。ご苦労であった。しかしまだ日本人としての戦いは終わっていない。その戦いを命令する」と遊撃隊として切り込み攻撃の命令を下しました。

そして中川大佐は連隊旗を燃やし師団本部に「サクラ、サクラ」と電報を打ちます。これはペリリュー守備隊玉砕を知らせるものでした。その上で中川大佐は「皆の足手まといになるといけないから先に行く」と言って、中川大佐、村井少将、飯田中佐の3人は見事に割腹自決したのです。

ヒイおじいさんは、残った遊撃隊のみんなと24日の夜から27日夜にかけて米軍と烈しく戦闘を繰り返しました。そして27日午後7時ごろになりました。残った数十名の中にヒイおじいさんがいます。今から総攻撃です。弾丸がありませんから、全員軍刀で切り込み突撃です。ヒイおじいさんが指揮官のようです。「全員突撃!」号令です。皆それぞれに喊声を上げながら米軍に向かって軍刀や銃剣を振り上げて走り出しました。サーチライトがこちらに向かってカーッと照らされます。ヒイおじいさんの眼は何も見えません。突撃しながら頭の中で28年間の短い人生のひとこまひとこまが走馬灯のようによぎっていきます。君のおじいさんの事、故郷水戸の美しい山河…。

そして一瞬の衝撃。

米海兵隊公刊戦史にこのときの状況が書かれているので君に読んであげよう。

「午後4時ごろ1中隊前哨は数人の敵を確認した。射撃を加えるといったん姿を消したが、いつの間にか彼らは鉄条網内側に飛び込んできた。日本兵の銃剣で3人、指揮官のサムライ・サーベルで2人が負傷した。日本兵3人は倒れたが、日本刀を持った将校は明らかに全身に銃弾を浴びながらなお進んできた。サーチライトがその姿を捕捉したので彼の視力は失われているはずだが、日本軍将校は高く日本刀を振り上げてまっすぐ突っ込んでくる。その正面にいた味方は血みどろになっても倒れぬ相手に恐怖して、誰一人銃の引き金を引くことも出来ず凍りついていた。しかし日本軍将校が近づき血に染まった日本刀が味方に振り下ろされる直前、味方から発射したバズーカ砲が彼の上半身を吹き飛ばした」

こうしてペリリュー島は玉砕しました。実に1万500人の日本軍兵士がペリリューの土となったのでした。ペリリューを落とした米軍はここを拠点に太平洋の制空権を得て、フィリピン、サイパン、グアム、沖縄と陥落させ、ついに日本本土への空襲、広島・長崎への原爆投下となっていくのです。ペリリュー島守備隊は、ペリリューを守ることは祖国日本と懐かしい故郷そして愛する家族を守ることであると知っていました。だからこそ君のヒイおじいさんのように最後の一人になるまで命を捨てて戦ったのです。

大東亜戦争中、日本軍は中国大陸やペリリューをはじめ太平洋の島々で玉砕するまで戦いました。玉砕した日本軍の戦死者数は全部で8万数千人にのぼるといいます。これは世界の戦史でも例がありません。これらの人々は何のために死んでいかれたのか私たちは考えなければなりません。(次号に続く)


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