校長の道徳授業

「植民地時代の終わりと人種平等の時代の幕開け」5

2019.09.15

マレーシア独立秘話

マレーの独立に捧げた命「豪傑トシさん」物語(2)

 

 

ハリマオこと谷豊との盟友関係の構築に成功した神本(かもと)利男(としお)は、明治38年9月18日、島根県から北海道十勝平野の開拓農民として入植した神本利七の次男として生を受けました。利七は、大東流(だいとうりゅう)合気柔術の創始者武田惣(たけだそう)角(かく)の直弟子でもありました。

利男は尋常(じんじょう)小学校を卒業したとき、島根の祖父に引き取られ、当地の高等小学校(10歳から14歳)、中学校を卒業後、東京に出て拓殖大学に入学しました。

昭和6年、拓大商学部支那(しな)語(中国語)科を卒業した利男は、病床にあった父利七への孝養を尽くすため、満州開拓の夢をあきらめて北海道に帰郷し、警察官となりました。

大東流合気柔術の達人だった父の影響を受けた利男は、小学時代は相撲、中学時代は柔道、拓大時代は空手で鍛え上げた武道家でしたから、警察官になったのも必然だったのかもしれません。

そんな利男に一大転機が訪れます。病床にあった父が病没したころ、満州警察の幹部になっていた大学の先輩の尽力で、満州警察に転勤することとなったのです。

夢がかない満州に渡って1年がたったころ、利男は、偶然に出会った道教と拳法の著名な老師に見込まれ、3年間の超人的な修行を積んで最高位門弟のお墨付きをもらったことは先月号で紹介した通りです。

その利男が、藤原岩市F機関長の下で、ハリマオとともに、マレー・シンガポール作戦大成功の英雄となるのです。

さて、話を戻しましょう。

日本を取り巻く情勢はまさに風雲急を告げていました。ヨーロッパでは1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻して、第2次世界大戦が勃発しました。ドイツとイタリアがイギリスやフランスなどの他のヨーロッパの国々を相手に戦争を始めたのです。フランスはドイツ軍に降伏し首都パリは占領され、イギリスも風前の灯の状況にありました。イギリスがその危機を乗り切るために頼ったのがアメリカでした。

しかし、時の大統領ルーズベルトは、大統領選挙の際、ヨーロッパの戦争には介入しないことを公約して当選したいきさつがあって、簡単にはイギリスのチャーチル首相の援軍派遣の要請に応えることはできませんでした。そこでルーズベルトが一計を案じたのが、ドイツ、イタリアと同盟関係にあった日本に、アメリカを攻撃させ、それを理由に第2次世界大戦に参戦することでした。

日本は、ABCD経済包囲網(アメリカ・イギリス・中国・オランダとそれらの国の植民地)からの石油などの全面禁輸が強行され苦境に立たされましたが、それでも天皇陛下の平和的解決の思し召し(おぼしめし)の下、必死で外交努力を続けました。

しかし、アメリカに平和的解決の考えは初めからなく、外交交渉は取り付く島もない状態です。そしてついに、昭和16年(1941)11月26日、アメリカのハル国務長官は、日本の野村大使と栗栖特派大使に対し最後(さいご)通牒(つうちょう)となるハル・ノートを手渡しました。

最後通牒というのは、外交交渉を打ち切るという意味です。つまりあとは戦争で決着するか、戦わずして降参するしかないよという意味なのです。

こうして大東亜戦争を仕掛けたのはアメリカのルーズベルト大統領(第32代)だったことは、第31代アメリカ大統領のハーバート・フーバーが、1946年5月4日、マッカーサー連合国最高司令官との会談において述べていることは有名です。

こうして日本は大東亜戦争に突入せざるを得ない状況に追い込まれました。この戦争は日本の独立を守る自存自衛と東亜新秩序(アジア諸国の植民地からの解放と独立)の建設を目的とすることが天皇陛下のお言葉で宣言(開戦の詔書)されました。

12月8日、日本海軍は、ハワイ真珠湾に集結していた米海軍艦隊を攻撃し、大成果を上げました。

同日未明、日本陸軍は、マレー半島の東海岸4か所に上陸を敢行しました。タイ側のシンゴラ、バタニ、タベー。そしてマレー側のコタバルです。

シンガポールには、イギルス海軍が誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが、アジアの植民地の守護神として君臨していましたが、日本海軍航空隊は機雷と爆撃攻撃で、開戦3日目の12月10日午後2時過ぎ、2艦とも撃沈しました。この戦果は日英双方の軍に大きな心理的効果をもたらしたことは言うまでもありません。

 

さて、ラティフの熱弁に戻りましょう。開戦前のジットラ陣地の神本利男とハリマオ団の活躍ぶりが、身振り手振りを交えての英語とマレー語、たまに日本語を交えての熱弁が続きます。不思議に私の不十分な語学力でも理解できるものなんですね。

ジットラ陣地を攻略しない限り、タイ側の3か所に上陸した日本軍は、マレーに侵攻できないのですから、極めて重要な作戦です。

「オラン・プテ(イギルス軍)は、ジャングルと湿地帯に囲まれたこの地に、大量のコンクリートと鉄材で堅固な防御陣地を建設して、ここで日本軍を食い止める作戦だったのさ。工事は急ピッチで進んでいたが、『トシサンとハリマオ』は、工事現場のマレー人の労務者に手下を潜入させ工事の妨害を企てたのさ。セメントや鉄材を片っ端から盗み出して沼地に捨てるわけだ。盗賊団の彼らにとってこんなことはもともと本業だからな。しかも盗んだものをそこら中にある沼に捨てるだけだからこんなのはお安い御用だ。そして建設用の機械類もこっそり忍び寄って故障させるから、工事は全く進まない。」

「さらに工事現場から得られる貴重な英軍に関する情報や資料がことごとくハリマオからトシサンに報告されたのさ。」

「こうして、オラン・プテが日本軍の総攻撃にも、3か月は持つと世界に向かって豪語していたジットラ陣地は、攻撃開始後わずか2日で陥落したのだ。」

 ラティフの話は佳境に入っていました。聞いている私も、身を乗り出して、それから、それからと続きを催促しながら、夜は白々と明けてくるのも忘れていました。

 そんな時、突然、ラティフが

「ノダ、オラン・プテのマタドール作戦を知ってるか」

と聞いてきました。当然私は知りません。

「オラン・プテは、日本軍はタイ南部のシンゴラ海岸に上陸するとにらんでいたんだ。そしてそれを迎え撃って全滅させる作戦をたてていたのだ。その情報もハリマオからトシサンに報告されていた。それがマタドール作戦だ。」

「この作戦が成功していたら、日本軍のマレー・シンガポール作戦は戦わずして惨敗していたのは間違いないよ。この情報を得たトシサンは、タイ政府内の協力者からイギリス軍のタイへの入国許可申請の情報を入手して上層部に報告していたのさ。」

「その時点では未だ大東亜戦争開戦のXデーが12月8日であることは、トシさんたちF機関のメンバーも知らされていなかったようだが、このマタドール作戦が不発に終わったのは、トシサンたちの情報が生かされたと俺たちは思っているよ。」

「ともかくジットラ陣地を突破した日本軍は、自転車に乗ってジャングル内の獣道や地元民しか知らない近道などを、ハリマオ団の連中が案内して破竹の勢いでシンガポールに向けて進軍したんだ。イギリス軍は、ジットラで敗れ、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは簡単にやられるわで怯(おび)えてしまって逃げる一方だ。おまけにハリマオは、手下とともにジャングルを先回りして、イギリス軍の退路にあるマレー人のカンポン(村落)で、ジョヨヨボが来たぞ。みんなで日本軍に協力するぞと訴えていく。」

「イギリス軍はマレー半島のいたるところに堅固な陣地を作っていたから、マレー人の協力がなければとても勝利は覚束なかったのは間違いないよ。マレー・シンガポール作戦の成功は、トシサンとハリマオの活躍があったからだと、我々マレーシアの人間は確信しているんだ」(次号に続く)


関連記事

カテゴリー

アーカイブ

勇志国際高等学校への
お問い合わせはこちら CONTACT
0120-5931-35
イメージ