校長の道徳授業

「植民地時代の終わりと人種平等の時代の幕開け」8

2019.12.01

マレーシアとインド独立にかけた命

「藤原岩市物語」(2)

 

藤原岩市少佐が、F機関長としてマレーシア独立だけではなく、インドの独立に極めて大きな貢献をし、「インド独立の母」と呼ばれ、インド独立史に燦然(さんぜん)と輝く存在になったのには、英軍から投降(降参すること)し捕虜となったインド人将兵から寄せられた絶大な信頼があったからです。その信頼を得るに至ったきっかけとなったエピソードを今回はいくつか紹介したいと思います。

 

先月号で、F機関の作戦で最初に英軍から投降し、日本軍の捕虜となったインド人将兵の中にモハンシン大尉がいたことを話しましたね。藤原少佐はそのモハンシン大尉のグループとIIL(インド独立連盟)のプリタムシン・グループ、そしてF機関との会食をすることにしました。食事は、藤原少佐の希望で捕虜となったインド人兵士の手作りのインド料理となりました。

 

会食の冒頭、モハンシン大尉が立ち上がって、次のようなスピーチをしたのです。

「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗残兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中では夢想だにできないことだった。英軍の中では同じ部隊の戦友でありながら、英人将校がインド兵と食事を共にしたことはなかった。インド人将校の熱意にかかわらず、将校集会所で、時にインド料理を用いてほしいと願う我々の提案さえ入れられなかった」

「藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた温かい催しこそは、一昨日来我々に示されつつある友愛の実践であるとともに、日本のインドに対する誠意の百万言にも勝る実証である。インド兵一同の感激は表現の言葉もないほどである」

 

 私もマレーシア時代に何度も経験しましたが、マレー料理も激辛ですが、インド料理は超激辛です。それを右の手で口に運ぶ。これが慣れないと結構難しいのです。その辛さに驚き、不器用に手づかみで食べる姿を見て、現地の人々は大喜びして、親近感を持ってくれるのでした。

 この会食で、インド人の将兵が大いに喜び、大笑いし、一気に打ち解けていった様が、私には目に浮かびます。

 

実は、ラティフからその話を聞いていた際も、彼の自宅で、奥方の手料理になるインドカレーをご馳走になっていました。あまりに辛いので目を白黒させている私を見て、彼の家族みんなが大笑いして、すっかりラティフ家の人気者になったのでした。

ちなみに、その辛さも慣れてくると、辛さにもいろいろな辛さがあり、おいしいと感じるようになるものですよ。

 

 次に、モハンシン大尉によるインド国民軍(INA)の創設に関するエピソードです。このINAが、のちにインド独立の主力となったのですから、この場面のラティフの談話は、最も熱が入っていたところです。

 

「1941年12月31日、タイピンに本部を移していたF機関にモハンシン大尉が藤原機関長を訪ねてきたのだ。モハンシン大尉は、そこで初めて藤原に、インド国民軍創設の決意を語ったのさ」

 その時モハンシンが藤原に語った構想と支援の依頼は、下記の通り、記録に残っています。

 

1、モハンシン大尉が中心となってインド国民軍の編成に着手すること。

2、日本軍の全幅の支援をお願いしたいこと。

3、INAとIILは互いに協力すること。

4、日本軍はインド兵捕虜の指導をモハンシン大尉に委任すること。

5、日本軍はインド兵捕虜を友情をもって遇し、INAに参加を希望する者は解放すること。

6、INAは日本軍と同盟関係の友軍とみなすこと。

 

「モハンシンは、藤原の手を固く握って『故国インド本国に残してきた結婚間もない妻や家族は、自分の決起で、英軍から迫害を受けるであろうし、それは他の仲間も同じです。しかし、我々は、敬愛する藤原少佐という心友を得たのです。もはや祖国の独立のために、自分の命と最愛の家族の命を捧げることに何らの躊躇もありません。この覚悟を決めたINA将兵の戦力は、英軍の一員であった当時とは面目を一新するでしょう』と語ったそうだ」

「インド独立の歴史に、永遠に記録されるべきINAが、ここマレーはペラク州の首都タイピンにおいて産声を上げた瞬間だ」

 そう話すラティフと、そばで一緒に聞いていた彼の家族は、感涙にむせんだのでした。もちろん私も、です。

 

このモハンシンの申し出のINA(インド国民軍)創設の構想は、藤原から現地の日本陸軍中枢に報告されて許可を得、その後の作戦はこの構想を基軸に進められることとなりました。

敵である英軍内で多数を占めるインド人将兵は、インド本国から召集されてマレー(現マレーシア)に派遣され日本軍と激戦を繰り広げているわけです。その英軍から投降したインド人将兵が、日本軍の捕虜になるのではなくマレーと祖国インド独立を目指して、日本軍と共に、たった今まで属していた英軍と戦うという構図こそ、アジアの解放を目的とした大東亜戦争の意義を最も表しているのではないかと思われるのです。

 

その後のモハンシン率いるINAの活躍は目覚ましいものでした。2~3名を1班とする宣伝班を組織して、猛攻を続ける日本軍の前線を後方から突破して英軍の陣営に侵入し、英軍内のインド人将兵に、直接、投降とINAへの参加を呼び掛ける捨て身の活動で、成果を上げていったのです。さらに、もっと大規模に投降を呼びかけるために、藤原と相談のうえ、日本軍の協力を得て、日本陸軍の戦闘機から、投降を呼びかけるビラを空中から散布するなどの活動が功を奏し、インド人将兵が陸続として白旗を振って投降してきたのです。

このINAは、後にシンガポール陥落後、同地で樹立されたインド独立仮政府の正規軍として、無条件降伏した英軍に残っていたインド人将兵5万人を加えて改めて結成され、インド国民に独立への希望と勇気を与えたのです。

 

藤原は、前線で活躍するINA(インド国民軍)、IIL(インド独立連盟)、そしてF機関員の労をねぎらい戦意を鼓舞するため、前線に視察に出向きました。その途上も、ジャングルやゴム林から白旗を掲げて降伏してくるインド人将兵の集団が後を絶ちません。ひっきりなしに投降兵と遭遇するのです。

予想をはるかに超えるインド人将兵の投降に対応する必要に迫られ、藤原は、一旦、前線からイポーの町にある作戦本部に帰還することにしました。投降したばかりのインド人将兵約300人とともに、捕獲した敵の車両に分乗してイポーの町へ向かったのです。

藤原の乗ったジープは、運転手を含めて、たった今投降してきたインド人将校3名を同乗させました。1人のF機関員もINAもいません。日本人は藤原だけです。この自動車行軍のさなか、藤原は隣のインド人将校の肩にもたれて大いびきで熟睡したというのです。起こされた時はすでに夕刻、イポーの本部に到着した時でした。

 

投降したばかりのインド人将校の肩にもたれて車中で雷のようないびきをかいて眠りこけた藤原の大胆さは、投降するインド兵への信頼の表れとして評判になり、結果的に、インド人将兵の藤原とF機関への信頼をいやがうえにも高める結果となったのです。


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