校長の道徳授業

「植民地時代の終わりと人種平等の時代の幕開け」7

2019.11.15

マレーシアとインド独立にかけた命

「藤原岩市物語」(1)

 

 

私が日本人の誇りに目覚めたのは、青年海外協力隊で派遣されたマレーシアでのことでした。戦後教育世代である私は、我が国は、「太平洋戦争」でアジアの国々を侵略して敗北した悪い国だと学校で教わって育ちましたから、日本人であることが、誇りどころかむしろ恥ずかしいと思っていました。私はこどもの時から並外れて正義感が強く、弱い者いじめを見ると絶対に許せず、相手が誰であろうと、何人いようと躊躇(ちゅうちょ)なく止めに入るようなこどもでした。ですから、弱いアジアの国々を侵略したということが許せなかったのです。

しかし、マレーシアで知った歴史の真実は、その逆でした。日本は、健気(けなげ)にも、アジアの国々を植民地支配していた欧米列強を相手に、孤軍(こぐん)奮闘(ふんとう)、戦いを挑んだのです。もちろん、アジアを植民地から解放するためにです。アジアの人々はそんな日本の戦いを歓迎し、全面的に協力したのです。あの戦争は、「太平洋戦争」ではなく、「大東亜戦争」の呼称が正しいということも知りました。

そのことは、現地の人々が日本人に対して必ず口にする「オランジュポン、テレマカシ、バニャ」(日本の皆さん、大変ありがとうございました)という言葉に集約されていました。それを体系づけて詳しく何度も何度も繰り返し教えてくれたのが、ラティフだったのです。

さて、そのラティフの熱弁を聞きましょう。

 

「ノダ、俺の先祖はインドからこの地に移住してきてマレーシア国民になった。その俺の立場からすると、日本にはどれだけ感謝しても感謝しきれないのだ。なぜなら、このマレーシアだけでなく、インドの独立も、日本のおかげだからな。」

「その中で最も大きな働きをした日本人が3人いる。ハリマオとトシさん、そして藤原岩市だ。前の二人のことはもう話したから、今日は藤原岩市のことを話すよ。」

「藤原は、マレー・シンガポール作戦の事前工作を企画し、トシさんやハリマオと組んで偉大な仕事をしたことは先に話した通りだ。しかし、藤原は、マレーに長年君臨していたイギリス軍がシンガポールで日本軍に無条件降伏したあと、今度はインドの独立に向けて立ち上がってくれたのだ。」

「まず、マレー・シンガポール作戦での藤原の働きから話そう。彼の役割は諜報(ちょうほう)活動だ。彼が責任者である諜報機関が『F機関』と呼ばれていたことは前に話した通りだ。藤原の頭文字のF、フリーダム(自由)のF、フレンドシップ(友情)のFをとってつけられたのだけど、藤原の思想を表現した素晴らしいネーミングだったと、アジアの歴史家たちは高く評価しているよ。」

「藤原機関長は、開戦前の早い時期にマレーの隣国タイに潜入してインド独立運動家たちとひそかに接触していたんだ。IIL(インド独立連盟)指導者のアマールシンや書記長のプリタムシンなどだ。この組織はタイのバンコックに本部を置いていた秘密結社さ。」

 

 ここで藤原岩市著になる『F機関』を参考に、今少し、このあたりの状況を捕捉説明しておきたいと思います。

 藤原機関(F機関)は、総勢11人のメンバーから始まりました。与えられた作戦(任務)は、ハリマオを通じてのマレー人対策のほか多岐にわたっていましたが、なかでもIIL(インド独立連盟)の運動を支援して、イギリス軍中のインド兵に降伏を呼びかけて捕虜にし、祖国インド独立の同志とすることにあったのです。

 この作戦を実行するにあたって藤原は、部下に対し、次の基本方針を伝えています。

 

 

1、同志を敵中に求めるための勇敢な行動を心掛ける。

2、口先の宣伝より垂範(すいはん)(上に立つ者が模範を示すこと)実行する。

3、約束は必ず守って実行する。

4、誠意と親切と情義(じょうぎ)(人情と義理)を第1とする。

5、IILメンバーと生死や苦楽を共にし、衣食住は彼らの風習に合わせる。

6、住民の所有物を不法に取得しない。(物はとるな)

7、暴力は絶対に行使しない。(乱暴はするな)

8、軍の威をかさにきての不遜(ふそん)の言動をしない。(威張るな)

 

私は、これを読んでいたく感動しました。日本の青年海外協力隊が、欧米の協力隊と比較して断然評判がいい理由は、現地の生活習慣に溶け込んで、しかも威張らないからです。このF機関の方針は、まさに日本人本来の国民性なのかもしれませんね。とにかくF機関はこの方針を貫いて成功したのです。

 

6月号で出てきたマレー・シンガポール作戦の緒戦となったタイとマレー国境線近くのイギリス軍のジットラ陣地を陥落させた日本軍は、隣町のアロルスターをその勢いで落とし、破竹の勢いで南下していました。

ここから、ラティフの熱弁が開戦後に入っていきます。

 

「藤原とF機関そしてプリタムシンなどのインド独立を目指すIILのメンバーは、アロルスターが陥落した直後にこの町に入ったのさ。その中心地にあった警察署にインド国旗を掲げ、IILとF機関を表示した横断幕を張ったところ、インド人やマレー人の民衆が大勢集まってきたのさ。そこでまず、プリタムシンが民衆の前に立って、IILの独立運動のこと、日本軍のIILの活動への誠意ある援助について演説すると、民衆は歓呼をもってIILの活動と日本軍への協力を誓い合ったのさ。」

「その群衆の中にいた近郊でゴム園を経営しているインド人が、重要な情報を藤原に持ってきたんだ。日本軍の猛攻に逃げ遅れたイギりス軍の部隊が自分のゴム園に隠れていて、隊長だけがオランプテ(白人)で、他はみんなインド人将兵ばかりだということ、そして投降する可能性があるという情報だ。」

「藤原は、周りが制止するのも振り切って、単身で、そのゴム園に乗り込んでいったのさ。しかも武器は一切持たずにだよ。勇気ある行動と垂範を身をもって示したんだ。プリタムシンが一緒に行くといって聞かなかったそうだが、藤原は、あなたはインドの独立のためになくてはならない人だ。私の代わりは日本軍にいくらでもいるといって連れて行かなかったそうだ。そして敵のオランプテの隊長と差しで会って、誠心誠意を尽くして投降を勧(すす)めたのさ。」

「敵の隊長は、藤原の勇気と誠意に感動して、涙ながらに降伏文書にサインしたそうだよ。」

「こうして、イギリス軍に組み込まれていたインド人の将兵は、日本軍に投降し、祖国インド独立運動の同志となってIILとともに活動をする立場に代わったのさ。」

「藤原の方針だった同志を敵中に求めて成功した最初の出来事となったのだ。」

「このことがきっかけとなって、IILとF機関は、日本軍の侵攻に先回りして、イギリス軍中のインド兵に飛行機からビラをまいたり、既に降伏したインド人将兵がマイクで降伏してともにインド独立運動に加わるよう呼びかけ、イギリス軍をかく乱させることに大成果を上げていった。」

「アロルスターで降伏したインド人将兵の中にモハンシン大尉がいたのだ。彼は、その後の作戦において目覚ましい活躍をして、イギリス軍が降伏したのちシンガポールで結成されたインド国民軍(INA)の創設者となって、インドの独立の歴史的英雄となったその人物だったのさ。」


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