校長の道徳授業

「植民地時代の終わりと人種平等の時代の幕開け」6

2019.10.15

マレーシア独立秘話

マレーの独立に捧げた命「豪傑トシさん」物語(3)

 

 

ここで「トシサン」こと神本(かもと)利男(としお)の豪傑ぶりを紹介しておきましょう。表題が「豪傑トシサン」ですからね。

 ラティフの話に盛んに出てきた「トシサン」について調べているとき、素晴らしい本に出合いました。土生(はぶ)良樹(よしき)氏の著になる「神本利男とマレーのハリマオ」という本です。

この一連のマレーシア独立秘話シリーズは、この本をずいぶん参考にさせていただきました。著者の土生さんは、「トシサン」と同じ拓殖大学のご出身で昭和8年生まれの広島出身。昭和44年にマレーシアに渡り、マレーシア農業大学講師として長年現地で活躍され、日本とマレーシアの友好親善にも大きな功績を残されている方です。またマレーシアに日本の空手を広められたことでも有名です。空手は8段の大先生です。私が青年海外協力隊でマレーシアに行ったのが昭和45年でしたから、その1年前から現地で活躍しておられた方です。

 この土生先生が、平成8年に展転社から出版されたこの本は、長年にわたって現地で取材と調査を重ねられて完成した名著です。この本から「トシサン」の豪傑ぶりのエピソードをピックアップして紹介させていただきます。

トシサンが転勤となったころの満州(現在の中国北東部)は、王道楽土・五族協和を標榜して満州国が建国されていました。五族というのは、満州人、韓国人、蒙古人、中国人、そして日本人のことで、この極東アジアの五民族が仲良く暮らす理想郷を建設しようという理想に共鳴した多くの日本人が、満蒙開拓に夢を託して渡満しました。

トシサンは、道教と拳法のメッカ千山で3年間にわたる人間離れした修行の後、満州警察に復職しての勤務地は、ソ連との国境近くの国境警備隊でした。その時代のエピソードです。

 

<満州に豪傑神本あり>

昭和13年7月13日、トシサンは満ソ国境線にある監視所で任務についていました。折悪しく濃霧がかかって、天気が良い日だったらソ連領のシベリアの果てしなく続く針葉樹林が一望に見渡せる山頂の巨岩の上で座禅を組んでいました。眼下に濃霧が広がり、まるで雲の上に座っている気分でした。

その岩の間から突如軍服を着た大男が現れたのです。ソ連の極東内務人民委員会長官のリュシコフ大将だとわかるのに時間はかかりませんでした。その日、大将は数人の幕僚を引き連れて国境視察に出ていたのでしたが、濃霧の中、彼らを見失いさまよっていたのでした。それは亡命目的で、同行した部下から意図的に身を隠した行動だったことが後でわかりました。

その当時、ソ連では指導者スターリンによる反対派の血の粛清(処刑)が猛威を振るっている時代であって、リュシコフ大将の身にもその危機が迫っていることを、彼自身感じていたのです。迷いに迷った彼は、満州を経由して、アメリカに亡命したいと思っての行動だったのです。

 気配を消して座禅を組んでいたトシサンに出くわしたリュシコフ大将は、思わず腰に下げた拳銃に手をかけました。トシサンは、千山で修業した秘伝の技で目にも止まらない速さで巨漢の背後に回り、拳銃を握っている彼の手の急所を抑え、一方の手でまるでシベリアの熊のような大男の頚筋(けいきん)に当て身を入れました。これで巨漢はどっとトシサンの足元に崩れ落ちたのです。トシサンは気絶したソ連軍の大将の巨体を、ひょいと肩に担ぐと、足音もなく岩陰から出て山を下り、息も切らさず麓の監視所まで運びました。途中何度かその巨体が蘇生しようとするたびに脇腹の急所を打って眠ってもらいました。

極東シベリアでソ連の最高権力者を自負するリュシュコフ大将の国境侵犯の現行犯逮捕でした。この1件は日本国内で大きな話題となり、トシサンこと神本利男の名は日本中に鳴り響きました。「満州に豪傑神本あり」と。

 

 

 

<藤原岩市との出会い>

 昭和16年1月初旬、満州にいるトシサンの下に、東京の陸軍参謀本部から急な呼び出しの電報が届きました。トシサンはこの異例の電報の意味するところを直感的に理解しました。風雲急を告げる国際情勢の中にあって、日本の取るべき道を彼なりに把握していたからです。四面楚歌の立場に立たされた我が国の進むべき道は、アジア諸民族とともにアジア諸国の独立のために立ち上がるしかないと思っていたのです。この電報はいよいよその時が来たということだと…。

 トシサンの直感はズバリ当たりました。参謀本部は、マレー・シンガポール作戦の事前工作を任せた藤原岩市少佐(当時大尉)の片腕として、リュシコフ大将を逮捕してすっかり有名になったトシサンの度胸と戦闘力に期待したのです。

 上京したトシサンは陸軍参謀本部の1室で、藤原岩市少佐を紹介されました。互いに名乗りあった2人は、瞬きもせず双眸(そうぼう)を見つめ合ったその瞬間に、生死をかけて理想と使命感を共にする決意を分かち合ったのでした。この時、神本利男36歳、藤原岩市33歳でした。その夜、2人は藤原のなじみの店で痛飲しました。アジア解放に命を懸けることになる2人の同志の固めの杯です。

♪男の酒の嬉しさは たちまち通う意気と熱 人生山河険(けわ)しくも 君杯をあげ給え 

いざ我が友よ まず一献(こん)♪

この出会いが世界の歴史を大転回させる出発になろうとは、まさに神のみぞ知る運命の日となったのです。

 

<トシサン死す>

 大東亜戦争は、日本の自存(じそん)自衛(じえい)(国家の独立維持)と東亜新秩序の建設つまりアジア諸国の植民地からの解放と独立が目的だったことは、すでに述べました。その目的のため最も重要な作戦が、マレー・シンガポール作戦でした。

そしてこの作戦は、トシサンやハリマオなどの活躍もあって、日本の大勝利に終わりました。シンガポールに追い込まれたイギリス軍のパーシバル将軍が、日本軍司令官山下奉(とも)文(ゆき)将軍(当時)との会談で無条件降伏したのでした。このとき山下将軍の「イエスかノーか」と詰め寄ったシーンはあまりにも有名です。開戦からわずかに70日後のことでした。

その後、日本軍は、インド独立運動家のリーダー、チャンドラ・ボースを亡命先のドイツから日本の潜水艦で隠密(おんみつ)裏(り)にシンガポールに招き、彼を首班とする自由インド臨時政府を立ち上げ、同時にインド国民軍を結成したのです。この実現の裏には藤原岩市の活躍がありました。インド国民軍の兵士は、英軍の降伏によって日本軍の捕虜となった者たち英印軍中のインド兵5万人です。彼らはマレーと同じく英国の植民地であったインド本国から英軍の兵士として連れられてきていた若者たちでした。藤原は、彼らに祖国インド独立のために戦う自由を与えたのです。

このインド独立の作戦をインパール作戦と言います。結果は無残な敗北に終わりましたが、確実にインドの独立と日印の深い友情の礎になりました。

マレー・シンガポール作戦大勝利の立役者となったトシサンも、この作戦に参加していました。過酷な環境の中獅子粉塵の活躍をしていましたが、マレー作戦でのハリマオと同じくマラリアにやられ、戦地のジャングルの基地で意識朦朧(もうろう)としているとき、藤原少佐が訪ねてきました。藤原もまたマラリアに罹患(りかん)していましたが小康を保っていた時でした。

「トシサン、俺と一緒に潜水艦で日本へ帰ろう。このままでは戦えないし、日本で治療して出直すのだ。」

 2人は2隻の潜水艦に分乗し、ペナン港を日本へ向けて出発しました。しかしトシサンが乗った潜水艦だけが、米軍のレーダーに捕捉されて南シナ海で撃沈されたのです。昭和19年9月30日のことでした。人類史に偉大な功績を残した。

2人の快男児は、アジア解放の日を見ることなく南十字星の下に散っていったのでした。


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