校長の道徳授業

「植民地時代の終わりと人種平等の時代の幕開け」2

2019.06.15

マレーシア独立秘話~「ハリマオ」と呼ばれた男(2)

 

 

ハリマオこと谷(たに)豊(ゆたか)青年は、幼い妹シズ子が華人(オラン・チナ=中国人)の暴徒に襲われ殺害され、犯人を逮捕した英国の植民地政府が、日本への反発から無罪放免した事件で、華人と植民地支配しているイギリス人への憤りから、盗賊団を結成し暴れまわっていました。狙うのは決まって華人や英人の豪邸や銀行で、奪った金品は貧しいマレー人やインド人の家庭に残らずばらまく義賊となって、植民地政府から高額の懸賞金をその首にかけられていました。

そのころハリマオは、イスラム教に改宗し、マレー人になりきっていました。彼を慕う3千人ともいわれるマレー人の子分たちとマレーの大地をよほど愛していたのでしょう。改宗後の豊の名前は、モハマッド・アリー・ビン・アブドラ―といいます。

そんなハリマオに目を付けたのは、大東亜戦争の開戦を控え、マレー・シンガポール作戦の事前工作の大任を与えられた藤原岩市少佐でした。藤原の任務は、日本陸軍がマレー半島に侵攻してくる前に、マレー人を日本軍に協力させることと、イギリス軍兵士としてインド本国からマレーへ連れられてきているインド人将兵を味方につけて、イギリス軍をマレー半島で孤立させることでした。

藤原少佐は、マレー人工作の任をハリマオに期待したのです。日本軍の進軍する前方で、現地のマレー人を懐柔して日本軍に協力させる作戦でした。マレーを植民地から解放するという大東亜戦争の大義の戦いのためには、マレーの人々の協力はどうしても必要だったのです。これはのちに「ハリマオ作戦」と呼ばれました。

そしてハリマオとの接触とその後の作戦の指導を、満州警察官時代に道教系の武闘派拳法の達人として満州の馬賊に恐れられた豪傑 神本(かもと)利男に求めました。

この3人の日本人の働きが無かったら、マレー作戦の大勝利はおぼつかなかったし、戦後のマレーシア独立やアジアの国々の独立も夢と消えていたことは間違いないのです。

当時のアジアは、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、そしてインド、パキスタン、スリランカはすべてイギリスの植民地でした。インドネシアはオランダ、フィリピンはアメリカ、カンボジアとラオスはフランスのそれぞれ植民地だったのです。

皆さんは植民地といってもピンと来ないかもしれませんね。70数年前まで、つまり第2次世界大戦が終わるまで、世界は、有色人種の国を片っ端から圧倒的な軍事力で侵略して植民地として支配するグループと、支配されるグループとに大きく二分されていたなんて信じられないでしょうね。支配していたのはヨーロッパやアメリカなどの白人国家で、支配されていたのは、アジアやアフリカなどの有色人種の国家でした。

現地の人々を虐殺し、富を奪い、その国を乗っ取り、その後数百年にわたってその国の国民を奴隷のように支配し、資源を収奪しまくった植民地時代は、「コロンブスのアメリカ大陸発見」から約500年間続いたのです。

有色人種の中でわが日本だけが植民地にならず独立国家でした。それは私たち日本人のご先祖様たちが、植民地にならないよう知恵を絞り勇気を奮って戦ったからなのです。マレーシアは、16世紀の初めにポルトガルの植民地に、17世紀の中ごろからオランダの植民地、そして1874年からイギリスの植民地となりました。1957年に独立するまでの約450年もの間、植民地として虐げられてきたのです。

さて、ラティフの熱弁が続きます。

マレーの大地からイギリス軍を追い出してマレー人の手にこの国を取り戻すために、日本軍はイギリス軍と戦うのだという神本の話に感動し同志となったハリマオは、マレー人の子分を集めて檄を飛ばした。

「俺たちの国マラヤ(現マレーシア)が、白人たちに奪われて450年、マレー人による独立運動はことごとくオラン・プテ(白人)の軍隊に潰され独立の勇士はすべて虐殺されてきた。しかし、今、日本軍がイギリス軍をこの地からイギリス本国へ追い返すために、戦ってくれることになった。俺たちマレー人に代わって日本軍が戦ってくれるのだ。その日本軍と共に我々『ハリマオ団』も戦うのだ。」

子分の中で最年長で吹き矢の名人ヒザンが立ち上がって叫んだ。

「ジョヨヨボが来た!待ちに待ったジョヨヨボとともに戦うことができるのだ。アラーの神に感謝する。」

爆薬扱いの名人「ムサ」も、手斧投げの達人カリムも、ジャングルの樹から樹へ猿のように飛び移って移動できるラーマンも、次々に立ち上がってこぶしを振り上げて叫んだ。「ジョヨヨボが来た!ジョヨヨボが来た!」

歓喜の叫びがジャングルに響き渡った。

マレー人社会では、「ジョヨヨボの予言」という神話がありました。それは「北方の黄色い人達が、いつかこの地に来て、白い悪魔の支配者を追い払い、短い期間白い悪魔に代わってこの地を支配する。しかし、やがて黄色い人たちは北へ帰り、正義の女神に祝福される平和な繁栄の世の中が完成する」というものでした。この日本軍のマレー侵攻はマレー人にはその神話そのものだったのです。

F機関による「ハリマオ作戦」は、すでに軌道に乗っていました。タイ東岸のシンゴラとバタニの海岸に上陸した日本軍の主力がマレーに侵攻するには、タイ国境から約30キロマレーに入ったイギリス軍の堅固な防御陣地ジットラ・ラインの突破が不可欠でした。F機関の最初の作戦は、このジットラ・ラインの攪乱(かくらん)だったのです。

さて、ラティフの話は続きます。

「ジットラ陣地は、イギリス軍はどんなに日本の大軍が攻撃しても、3か月は持ちこたえることができると豪語していたのさ。しかし、その工事は大幅に遅れていた。ハリマオの子分たちがマレー人労務者に紛れて、セメントを盗み出すは、鋼材は持ち出すはで、妨害する。彼らはその道のプロだからな。」

と、警察官のラティフが誇らしげに話すのが滑稽でした。

彼らは情報収集のプロでもありましたから、ジットラ陣地に潜入して必要な資料や情報を収集して藤原機関長に報告しました。その効果は絶大でした。3か月は持ちこたえるとイギリス軍が国際社会に豪語していたジットラ陣地は、わずか2日間で陥落したのです。マレー戦線の緒戦のこの快挙は大きな心理的効果をもたらしました。その後の東南アジアにおける大東亜戦争の勝利を決定づけたのです。

「日本軍は強いぞ。イギリス軍は張子の虎だ」という評価が一気に世界中を席巻していったのです。

1212日にジットラ陣地を突破した日本軍は、19日にはペナン島占領、翌年111日には首都クアラルンプール占領、同31日にはマレー半島の突端ジョホールバル占領と破竹の勢いです。わずか50数日でマレー半島1千キロを制覇しました。

イギリス軍はまともに戦闘を交えることなく敗走に敗走を重ね、逃げる際に橋や道路を破壊して日本軍の行く手を阻もうとしても、ハリマオ団と「ジョヨヨボ来る」と喜び勇んだ民衆の協力で、破壊された橋は近くのヤシの木を切り倒して仮橋をつくり、破壊された道路は住民総出で補修し、敵の情報も、細大漏らさずハリマオの子分たちからもたらされました。日本軍の銀輪部隊(自転車部隊)は、敗走するイギリス軍を追い越すほどの勢いだったと、ラティフは自慢の口ひげをひねりながら話すのでした。

そんなラティフに、私は尋ねました。

「ラティフよ、ちょっと待ってくれ。日本では戦後の教育で、あの戦争は、日本がアジアの国々を侵略したと教えているが、話が全く違うじゃないか。アジアの独立のために戦ったのであって現地の人々は日本軍に協力したということか?」(7月号に続く)


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