校長の道徳授業

「植民地時代の終わりと人種平等の時代の幕開け」3

2019.07.15

マレーシア独立秘話~「ハリマオ」と呼ばれた男(3)

 

 

日本軍の破竹の勢いを熱弁するラティフの話をさえぎって質問した私に対して彼は、「ノダ、日本でどういう歴史教育がなされているか、俺にはわからんよ。しかし、今俺が話していることがマレー(現マレーシア)での大東亜戦争の真実さ。」「日本軍は、450年間もオラン・プテ(白人)に支配されてきたマレーを、植民地支配から解放して独立させるために、俺たちマレー人に代わって戦ってくれたんだ。戦った相手は、もちろんオラン・プテさ。俺たちマレー人も全面的に日本軍と一緒に彼らと戦ったのさ。」「日本軍は、強かった。俺たちは、何百年も奴らに支配されてきて、到底オラン・プテにはかないっこないと独立のために戦うことをあきらめていたのさ。しかし、同じアジア人で肌の色も俺たちと同じオラン・ジュポン(日本人)が、オラン・プテ(白人)をコテンパンにやっつけるのを見て、俺たちだってやれるとみんなが自信を取り戻したのだ。そして、俺たちも日本人と同じアジア人なのだという誇りを持つようになれたのさ。」

 

ラティフは、男泣きに泣きながら私に訴えるのでした。そして、日本は大東亜戦争には最後は負けたけれど、俺たちアジアの国々が第2次世界大戦後、みんな独立できたのは、間違いなく、日本が俺たちに代わって大東亜戦争というアジアの独立戦争を戦ってくれたからだと、訴えるのでした。「日本が負けて、本国に追い帰されていたオラン・プテは、また植民地支配しようとアジアに舞い戻って来たんだ。しかし、誇りと自信を取り戻したアジアの人々は、自分たちで独立を勝ち取るために戦ったんだ。隣のインドネシアでは、日本軍の兵隊さん2千名が、インドネシアに残って現地のみんなと一緒に戦ってくれたんだよ」

 

アジアの国々は、次々と独立していきました。インドネシアは1945年、フィリピンは1946年、インドは1947年、ミャンマーは1948年、カンボジアは1949年、ラオスは1950年、そしてマレーが独立してマレーシア連邦が成立したのが1957年のことです。

さて、ハリマオの物語は続きます。

マレー・シンガポール工作を命じられた藤原岩市は「F機関」(フジワラ、フリーダム、フレンドシップの頭文字をとって命名された)を組織して、ハリマオ団などの活躍で緒戦のジットラ陣地の攻防戦で日本軍の奇跡的大勝利を導きました。この戦いに惨敗したイギリス軍は、破竹の勢いで迫る日本軍の前になすすべもなく敗退に敗退を続けました。ハリマオ団は、敗退するイギリス軍に先回りして、ジャングルの奥深く山中を突き進み、マレー人の集落を訪れては「ジョヨヨボの聖戦」を宣伝して、日本軍への協力要請と共に、独立への熱い思いを語って、宣撫(せんぶ)(日本軍の方針を伝えて住民を安心させること)に全力を上げました。

このハリマオ団の八面六臂(はちめんろっぴ)(一人で何人分もの活躍をすること)の大活躍があったればこそ、マレー人の協力を得てこのマレー作戦を大勝利に導くことができたのは間違いありません。

しかし、その活動が極めて過酷(かこく)で困難を極めるものであったことは、後日生き残ったハリマオ団の吹き矢の名人ヒザンの述懐を待たずとも容易に想像できました。

 

マレーのジャングルは、私も協力隊時代、柔道の教え子たち(警察暴動鎮圧隊)の案内で探検のまねごとをしたことがありますが、過酷なんてものではありませんでした。高い樹上から10センチほどもある「ヒル」が、人間めがけてビュンビュン降ってくる。いやむしろ飛んでくる。木の枝には猛毒の小さな蛇が身を隠している。キングコプラやブラックコプラはいたるところに待ち構えている。ホエザルの鳴き声をきっかけにジャングル中が人間を拒絶するかのように一斉に動物や鳥たちが鳴き叫ぶ。もちろん本物のハリマオ(虎)や黒豹や象に出会うこともあるという具合です。

しかし、最も怖いのは蚊の大軍の襲来です。ハリマオこと谷豊青年は、これにやられた。マラリアの感染です。ジャングル暮らしに慣れたハリマオも、マラリアには勝てない。40度を超える高熱が何日も何日も続いて、体力を容赦(ようしゃ)なく奪っていく。それでも彼は、ハリマオ団の先頭に立ってイギリス軍を苦しめたのです。

開戦を控えた頃、ハリマオこと谷豊は、母への手紙をしたためていました。藤原岩市著『F機関』から紹介します。

 

「お母さん。豊の長い間の不孝をお許しください。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんでご安否を心配いたしております。お母さん!豊は日本参謀本部や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働いております。お母さん、喜んでください。豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げる時が来ました。豊は近いうちに単身英軍の中に入っていってマレー人を味方にして思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。お母さん!豊が死ぬ前にたった一言!今までの親不孝を許す。お国のためしっかり働けとお励ましください。お母さん!どうかこの豊の願いを聞き届けてください。そうして、お母さん!長く長くお達者にお過ごしください。お姉さんにもよろしく。」

 

昭和17(1942)215日午後、シンガポールのブキティマのフォード自動車工場で会見した日本軍の山下奉文司令官とイギリス軍のパーシバル司令官は、山下司令官の「イエスか、ノーか」の一声により、イギリス軍の無条件降伏で決着しました。マレー・シンガポール作戦の勝利の瞬間です。開戦から、わずか70日間の戦いでした。

 

ハリマオは、ジョホール・バルの野戦病院で、無理に無理を重ねてマラリアをこじらせ高熱で意識朦朧(もうろう)とする中で、この歴史的な朗報を聞きました。

開戦前、ハリマオを監獄から救い出し、一心同体となってハリマオの作戦指導を担当し、行動を共にしてきた「トシさん」こと神本(かもと)利男は、F機関長藤原岩市少佐の命令で重体となったハリマオをジョホール・バルの野戦病院からシンガポールの病院に移して、ベッドに横たわるハリマオに、母親から届いたばかりの手紙を読んで聞かせました。

「豊さん、お手紙を拝見してうれし泣きに泣きました。何べんも何べんも拝見いたしました。真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いてくださるとの御決心、母も姉も夢かと思うほどうれしく思います。母もこれで肩身が広くなりました。許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄をたててください。母をはじめ家内一同達者です。母のこと、家のことはちっとも心配せずに存分にご奉公してください。」

この1年、ハリマオとジャングル生活で作戦を共にした「トシさん」は、読みながらハリマオの数奇な短い人生に思いをはせていました。

ハリマオは、神本利男の目を見つめて、「トシさん、ありがとう。楽しかったよ。」と言った。

「本当に楽しい1年だったなあ。俺の方こそ礼を言うよ。ありがとう。」と神本が返す。

2人の男にとってこの1年は筆舌に尽くしがたい艱難(かんなん)辛苦の日々だったはずです。しかし、マレーやシンガポールを長い間植民地支配し搾取(さくしゅ)の限りを尽くしてきたイギリス軍を相手に戦った植民地解放戦争の最前線に参加、イギリス軍の降伏を見られたことが、この2人の日本男児に「楽しい1年だった」と生と死の別れ際に述懐させたのでした。

その2日後の昭和1737日、シンガポールの病院にてハリマオは病没しました。享年30歳でした。願い通り、死ぬ前に、それまでの親不孝に対する母の許しを得て、あの世へと旅立ったのでした。

ハリマオの訃報に接した藤原岩市少佐は、悲しみに暮れながら民間人の協力者の立場であったハリマオこと谷 豊を軍属として陸軍省に登記しました。その結果、マレー作戦の大成功及び戦後のマレーシア独立の立役者となった英雄「谷 豊」は、靖国神社に英霊の一柱としてまつられているのです。


関連記事

カテゴリー

アーカイブ

勇志国際高等学校への
お問い合わせはこちら CONTACT
0120-5931-35
イメージ