日本史偉人伝

会沢 正志斎

2018.12.15

今回は、江戸時代後期の水戸藩の重臣であり、藤田東湖とともに尊王攘夷論を唱えた、会沢正志斎を紹介します。

 

会沢正志斎は、天明2(1782)年、水戸藩士・会沢恭敬の長男として、水戸城下で生まれました。寛政3(1791)年、10歳の時に、儒学者の藤田幽谷の塾・青藍舎に入門しました。幽谷は当時18歳という若い人物でしたが、観念的な学問より、実社会に役立つ実学を奨励しました。寛政11(1799)年には、藩の修史局・彰考館に入り、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が始めた膨大な歴史書である『大日本史』の編纂に従事しました。そのことが、大義名分を軸とした尊王論で貫かれる水戸学の基本スタンスを身につけるきっかけにもなりました。文化4(1807)年には、26歳にして、7代藩主治紀の三男・斉昭の侍読を命じられます。後に9代藩主となる斉昭との出会いでした。

文政7(1824)年、藩内の大津浜にイギリス人12人が上陸する事件が起こりました。会沢は、この時に筆談役を務めています。この時は、水や食料を求めてのものでしたが、水戸藩の長い海岸線は、その気になれば異国人が簡単に上陸できることが露呈し、これが一つのきっかけとなって、翌年に幕府は異国船打払令を発令しました。もちろん会沢も、強い危機感を抱きました。そして、会沢は、イギリス人船員から聴取した海外事情も踏まえ、『新論』を書き上げました。西洋列強の接近に警告を発し、その対応策として尊王攘夷を論じたものでした。時代に先んじて、危機の到来を予見して構想された国家戦略だったともいえます。

『新論』の内容が一般的に知られたのは、その20年後、つまり、清がアヘン戦争でイギリスに敗れ、西洋の脅威に対する危機感がかつてなく高まっていた頃でした。そのため、吉田松陰をはじめとする幕末の志士たちに多大な影響を与え、瞬く間に「新論」は全国に広まりました。その中には、いくつかの具体的な例も示してありました。

「最近、ロシア人が近海に現れて日本に接触を図っているのは、食料としての米穀を求めているにすぎず、心配はない」という見解がありました。それに対し、「ロシア人は米を常食とせず、たとえ必要でもすでに西洋が領有したインドや南海で入手可能なはずだ。したがって、彼らの目的は他にあるに違いない」と反論を加えています。

「近海に出没する船舶は、漁船や商船に過ぎないのであり、したがって捕鯨や交易が目的だ」という議論に対しては、「鯨であれば、ロシアに近いグリーンランド近辺の海でも採れると聞いている。それがなぜ、極東に来る必要があるのか」と事実を挙げつつ批判し、西洋人が日本近海のことを知りすぎるのは軍事的に危険であると主張しました。驚くべきは、グリーンランド周辺で捕鯨が行われていたことを知っており、その情報を根拠として自分の論理を組み立てている点です。

さらに、「西洋は地理的に遠く、軍事力は小規模であるので、問題は少ない」という見解に対し、「戦争の勝敗は兵力の多寡ではない。外敵はたとえ少数でも、民衆を味方に引き込むことで国家を奪う恐れがある。特にキリスト教は、そのような戦術に習熟している」と指摘しました。実際、そのことは会沢が『新論』を書き上げた20年後、兵力で劣るイギリスがアヘン戦争で清を破るということによって証明されました。

文政12(1829)年に斉昭が藩主になると、藩政改革を補佐し、さらに天保11(1840)年には藩校・弘道館の初代教授頭取となって、水戸学を大いに広めました。

会沢が71歳となった嘉永5(1852)年、吉田松陰の来訪を受けます。その際、会沢は松蔭にこう言いました。「君はいろいろ国事を論ずるが、日本の歴史をよく読まれたか。日本書紀や古事記をよく研究されたか。日本建国の由来をよく分かっておられるか。これから君は何をおいても国史を勉強されぬといかん。国史を読んでこそはじめて日本の真の姿が分かるのですぞ。」この時より、吉田松陰が日本の歴史についても勉強するきっかけになり、多くの人材を輩出するに至ったのです。

 

会沢正志斎は、文久3(1863)年、82歳でこの世を去りました。皆さんも、「日本の真の姿」を知るために、日本の歴史を正しく学んでいきましょう。


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