日本史偉人伝

鍋島 直正

2018.12.08

今回は、佐賀藩の工業化の基礎をなした、鍋島直正を紹介します。

 

鍋島直正は、第9代佐賀藩主であった鍋島斉直の子として、江戸の桜田屋敷に生まれました。

17歳で藩主となった直正は、初めてのお国入りとして佐賀に向かうことになりましたが、出発の際に売掛金の支払いを求める商人が藩邸に押しかけるハプニングに見舞われます。それでも、佐賀に着くと、古賀穀堂の進言により、長崎の視察に出かけます。その際、オランダの商船に自ら乗り込み、船内を見学しました。藩主として前代未聞の行動でしたが、商船でありながら海賊対策として大砲を装備し、船体の大きさも和船と格段に違うなど、西洋との軍事力の差を痛感することになりました。

直正は、天保11(1840)年に清で勃発したアヘン戦争で、これまでさまざまな技術や文化の手本となってきた中国がイギリスに敗北したことに強い衝撃を受け、危機感を感じます。

反射炉といえば、薩摩や韮山(静岡県)のものが有名ですが、最初に築いたのは、実は佐賀藩でした。そもそも反射炉とは、耐火レンガの炉で、高さは15メートルほどになるものです。佐賀藩には焼物の技術があったため、その技術を活かし、珪藻土という白い粘土を用いて耐火レンガを焼きました。内部は天井がドーム型になっており、燃料を燃やした熱がドーム天井に反射して鉄材を溶かす仕組みだったため、そこから反射炉という名前が付けられました。

嘉永3(1850)年、直正は城下の鋳物師や刀鍛冶など優れた職人を率いて、「大銃製造方」というプロジェクトチームを8人で発足させました。直正は鉄製大砲の鋳造方法を解説した蘭書を手に入れ、それをもとに反射炉の建設を目指しました。

理屈は分かっていたものの、蘭書のみが頼りだったため、実際に始めるとうまくいきませんでした。何度も試作を繰り返し、そのたびに失敗を重ねました。大銃製造方は、とうとう不可能と判断し、切腹して責任を取りたいと直正に願い出ました。しかし、直正は言葉を尽くして続行を望み、職人たちもそれを受け入れて再出発を決心しました。

とうとう5度目の試作で鉄が溶け、鉄製大砲がようやく形になります。ところが、試射であっけなく砲身が炸裂してしまいました。気泡が入りやすくなっていたことがその理由でした。それを解消するため、大砲型を鋳立て、その後に穴をくりぬく方法を取りますが、動力が問題でした。西洋では蒸気機関を使う方法が一般的でしたが、日本にその技術はありません。直正は、嘉永5(1852)年、蒸気機関を開発するためのプロジェクトチーム「製煉方」を立ち上げ、いずれは船や機関車に応用することも想定しました。

そして、嘉永6(1853)年までには長崎湾口の台場が整備され、60門もの日本初の国産大砲が据えつけられました。


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