日本史偉人伝

山田耕筰

2014.07.25

今回は、日本交響楽の発展に多大な功績を残した、山田耕筰を紹介します。

 山田耕筰は、明治19(1886)年6月9日、東京の本郷で医者であった父・山田謙造と母・ひさの次男として生まれました。耕筰は、15歳になったとき、一番上の姉と結婚し義理の兄となったイギリス人、エドワード・ガントレットに影響を受け、本格的に音楽に興味を示します。最初は譜面めくりをしていただけでしたが、半年ほどすると譜面を読めるようになり、自分でも楽器をいじり出します。義兄も、快く手ほどきをし、英習字や速記術も耕筰に教えていきました。

18歳で東京音楽学校予科へ入学し、翌年本科へ進級、そして研究科に進み音楽にのめりこんでいった耕筰に、大きなチャンスが訪れます。耕筰の恩師であったヴェルクマイスターが、ある日突然、「山田、来月はドイツへ行くのだ。嬉しかろう。」と言います。耕筰が「ドイツへ行けと言われても文無しでは…」と答えると、「金?金の心配はおれがする」と返します。ヴェルクマイスターは、三菱財閥の跡継ぎであった岩崎小弥太に耕筰のことを話し、承諾を得ていたのでした。明治43(1910)年の1月24日、正式にドイツ行きが決定し、大きな一歩を踏み出すことになったのです。

 耕筰は、ドイツに渡ると、世界各国から優秀な生徒の集まる、王立音楽院を受験しました。当時の日本の音楽界はまだレベルが低く、誰も合格できるとは思っていませんでしたが、47人の受験者中3人しかいない合格者の中に入り、非常に素晴らしい留学のスタートを切ることができました。ただ、耕筰がドイツで最も困ったことは、ドイツ語ができないことでした。耕筰は、ドイツ語は学ぶものではなく「盗むもの」と覚悟を決め、5ヶ月の間でドイツ語をものにしようと考えたのです。目に入るドイツ語は片っ端から大声で読み、耳にした言葉はすぐさまおうむ返しに繰り返し、覚えた言葉はそのつど書き留めました。大きな声で街の看板を呼んでいると、通る人が発音の誤りを直してくれることもありました。「おれはドイツに誕生して、まだ1ヶ月にも満たぬ赤ん坊だ。何の恥じる必要があろう。」と勉強を重ね、3ヵ月後には簡単な会話を交わせるまでにレベルアップしていました。そしてその2年後、ついに日本人として初の交響曲である、『かちどきと平和』を完成させました。

 ドイツからの帰国後の大正3(1914)年、耕筰は日本初の交響楽演奏会を開催しました。また、その楽員によって組織した東京フィルハーモニー管弦楽団で定期演奏会を続け、日本の交響楽団活動の基礎をつくりました。さらに歌劇(オペラ)にも取り組もうとしますが、大変にお金がかかるもので、作曲の収入だけではまかないきれません。それでも耕筰は「交響楽運動とオペラ運動は、誰かがやらなければならないのだ。日本では、外国のように国や地方自治体の援助、企業やお金持ちの援助は当てにできない。どうしても、このように音楽家自体の自己犠牲のうちに音楽を進めなければならない。これは残念なことだが、今の自分はその立場にあるんだ。」と借金をしながらも運動を進めていました。

 耕筰は、『からたちの花』『この道』(北原白秋作詞)『赤とんぼ』(三木露風作詞)などの童謡の作曲も手がけています。作曲家の団伊玖磨によれば、耕筰は「歌曲を書く場合には日本語を大切にしなければならない」といつも言っており、「日本語をじっと聞いて、その日本語の中に内在する音楽性を定着しなければならない。それが日本の歌曲をつくるまず第一の方法であるし、歌曲ばかりでなくて器楽曲を書く場合でも、やはり自分の母国語のなかのリズムは大切にしなければならいのだ。それが一つの音楽的なテーマ、リズム、その他の大切な柱になるのだ。」ときつく言っていたそうです。日本語の上がり下がり、つまり生きた抑揚をよく考えて、抑揚を旋律化することが耕筰の曲の、第一の骨組みでした。

 山田耕筰がドイツに出発して100年余り。その間に、日本の音楽のレベルは著しく上がりました。耕筰が後世に残したものをしっかり受け継いでいくことが、現在の音楽家にも求められています。


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