日本史偉人伝

中川州男

2011.08.11

皆さんは、パラオという国を知っていますか?パラオは南太平洋に浮かぶ島国で、ダイビングなどの観光でも有名です。また、日本との共通点も多く、国旗は青地に黄色の丸であり、神社も数箇所建てられています。今回は、そのパラオのペリリュー島で、大東亜戦争時に日本軍守備隊の地区隊長として全軍を指揮した中川州男(なかがわ くにお)大佐を取り上げます。通信制高校 パラオ国旗.jpg

中川州男は明治31(1898)年、熊本県にて父・文次郎と母・マルの間に生まれました。「州」は川に囲まれた中州の様子をかたどった文字であり、「国」の意味を持っています。将来、国家を背負う男児の名としてふさわしいということでこの名前がつけられました。

 州男は小学校卒業後、熊本県立玉名中学校(現在の玉名高校)に入学しました。卒業が近づいて来ると、州男は軍人の道へ進みたいと思うようになります。もちろん、そのためには父・文次郎の承諾を得なければなりません。文次郎は、西南戦争の際に薩摩軍に加わり、負傷した過去がありました。文次郎は、州男が下宿していた場所から15キロほど離れた、西南戦争の激戦地であった田原坂まで州男を連れて行き、こう諭します。「人は負けると分かっていても戦わねばならぬ時がある。陸士(陸軍士官学校)を出たら、お前は将校だ。多くの部下の命と名誉を背負って戦わねばならぬ。よほどの覚悟がなければ、生半可な気持ちで陸士に進んではならん。」その父の教訓は、州男にとって生涯忘れることのできないものとなりました。

 州男は、大正2(1913)年4月、陸軍中央幼年学校に入校し、卒業した後陸軍士官学校に進み、大正7(1918)年、陸軍士官学校を卒業しました。その後、学校の配属将校として生徒に軍事教練を教え、昭和6(1931)年

8月に原隊に戻ります。さらに昭和10(1935)年、朝鮮に渡りました。昭和12(1937)年から始まった支那事変(日中戦争)の際には戦闘にも参加しています。

 そして、昭和19(1944)年4月、中川大佐の所属する第14師団はパラオ諸島に向け出航しました。制空権、制海権はすでにアメリカ軍にほぼ奪われかけた状態でした。そしてその中の一つの島、ペリリュー島には、当時東洋一とさえいわれた二本の滑走路をもつ飛行場があり、アメリカ軍はそこを占拠した後に整備し、フィリピン、沖縄、日本本土への攻撃に備えようとしていました。ペリリュー島が占拠されれば、日本本土が直接の爆撃を受けることになります。中川大佐は現地で部隊の状況を見てまわり、陣地作りの作業にもしばしば参加し、信頼関係を築いていきました。同時に、民間人に犠牲者の出ないよう、ペリリュー島の原住民約800名と在留邦人約160名を島から避難させました。

 同年9月12日、中川大佐は「決戦体制に入れ」の命令を発しました。ペリリュー島地区隊は中川大佐以下8978名です。その日から14日までの3日間にアメリカ軍によって撃ち込まれた砲弾は約17万発、約4000トンと記録されています。しかし、珊瑚礁隆起の石灰岩を掘った陣地、障害物、機雷の設置などにより簡単には攻め込ませません。アメリカ軍は一時後退し、主力である第一海兵師団第一連隊は戦闘能力喪失と判定され、ペリリュー島を去りました。一方で日本側の将兵たちの闘志に衰えはなく、各所の洞窟陣地に立てこもり戦い続けました。通信制高校 戦争 素材1.jpg

 しかし、11月24日、ついにパラオ本島司令部に宛てて「サクラ、サクラ」の電文を送信し、中川大佐は割腹自決を遂げました。その後も、残った将兵で戦い続け、「最後の一兵まで戦い抜かねばならん」という中川大佐の言葉を守りました。

 ペリリュー島には、敵将であったニミッツ元帥から贈られた文言が碑文に刻まれています。

「諸国から訪ねる旅人たちよ この島を守るために日本軍人が いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ  米太平洋艦隊司令長官 C・W・ニミッツ」


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