日本史偉人伝

坂本 龍馬

2018.11.20

今回は、薩摩と長州の仲介役として薩長同盟を成立に導いた、坂本竜馬を紹介します。

 

坂本竜馬は、天保6(1835)年11月15日、土佐国(現在の高知県)に、土佐藩士の坂本八平と母・幸の二男として生まれました。小さい頃の龍馬は、とても気が弱く、けんかしては泣かされて塾へ行ってもいじめられ、からかいを受けていました。そんな中、3つ年上のお姉さんであった乙女は「あなたはやればできる力があるんだ」と龍馬を励ましながら、剣道や水泳などを教えました。龍馬も剣道はものになるだけの素質を兼ね備えていたため、高知の町道場で練習に励み、誰も相手がいないぐらいに上達しました。

嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のため、江戸遊学に出かけます。北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟、千葉定吉に入門し、大変可愛がられ、ぐんぐん腕を上げました。一度高知に戻りましたが、再び江戸に出て、さらに2年間修業を積み、北辰一刀流の免許皆伝をもらいました。そして、人間性をかわれて千葉道場の塾頭になりました。

龍馬が江戸に遊学に出た際、ペリーが来航します。龍馬をはじめとする日本の心ある侍は目覚め、このままでは日本は欧米列強の植民地になるという危機感を覚えました。しかも当時の幕府は、毅然とした対応をすることなく屈してしまいます。それ以来、龍馬は学問にも真剣に打ち込むようになりました。

 

文久元(1861)年、龍馬が27歳の時、尊王攘夷を目的として武市半平太を首領とする土佐勤王党が結成されます。武市は龍馬の親友でもあり、龍馬もこの土佐勤王党に加盟しました。しかし、土佐藩は土佐勤王党の運動を抑えつけようとしたため、龍馬と数名は土佐藩を脱藩し、それぞれに活動を行うことにしました。

脱藩後、多くの志士は長州へ走りましたが、龍馬は幕府の役人であった勝海舟に弟子入りします。他の志士たちは不思議に思いましたが、そこには龍馬の考えがありました。勝は、日本がインドや清の二の舞にならぬよう、海軍の重要性を主張していました。それで、海軍というもの、また、勝という人物に深い関心があった龍馬は、弟子入りを決めたのでした。勝も龍馬を認め、神戸海軍操練所の塾頭を任せました。海軍については、龍馬が熊本の横井小楠に相談したところ、小楠は勝に「海軍問答」を送り、海軍建設に関する諸提案を行いました。

龍馬がその頃に考えていたのは、幕府を倒すために何が必要かということでした。龍馬は、大変な尊皇の志士で、「天皇と朝廷あっての日本だ」という持論を持っていました。朝廷を仰いで日本を立て直すためには、尊王倒幕運動の中で最大勢力の薩摩と長州を結びつける必要があると龍馬は考えます。しかし、禁門の変で敗れた長州は、薩摩を深く恨みました。そこで、龍馬が仲立ちをする形で歩み寄りが始まります。木戸孝允が「薩摩の名義で西洋式の小銃と蒸気船を購入したい」と言えば、龍馬が西郷隆盛に「木戸がこう言っている」と伝え、承諾した西郷は「京都に薩摩の兵を入れるため、兵糧米を長州から買いたい」と龍馬に伝え、龍馬はそれを木戸に話す。そのようなやりとりの中で、ついに慶応2(1866)年1月22日、薩長同盟が成立しました。

しかし、その後は幕府に命を狙われることになります。翌々日の24日、寺田屋に泊まっていた際、伏見奉行所の奉行以下百数十人に取り巻かれます。妻のお龍が薩摩屋敷に助けを求めたのでかろうじて助かりましたが、刀傷を負います。西郷の勧めで、霧島温泉で療養することを決めました。お龍もそれに同行しました。これが日本最初の新婚旅行とされています。

慶応3(1867)年11月15日、京都の近江屋で坂本竜馬は暗殺されました。33歳という若さで、明治維新を目にすることなく亡くなりました。

 

坂本竜馬なくして、薩長同盟はあり得ませんでしたし、明治維新もあり得ませんでした。小さいころは弱虫と罵られていても、国のことを真剣に思い、行動したからこそこのような結果を残すことができたのです。


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