日本史偉人伝

ラダ・ビノード・パール博士

2011.08.15

今回の偉人伝では、昭和21(1946)年から昭和23(1948)年まで行われた、日本の戦争犯罪を裁くとされた極東国際軍事裁判(東京裁判)にインド代表判事として参加し、被告全員の無罪を主張した人物であるラダ・ビノード・パール博士を紹介します。パール博士はインド人ではありますが、日本史上で欠かすことのできない人物です。

ラダ・ビノード・パールは、1886年1月27日、インド・ベンガル地方の小村に生まれました。彼は3歳にして父親を失ったために、家は非常に貧しく、大学を卒業するまでには大きな経済的苦難がありました。苦学を重ね、カルカッタ大学の入学試験に合格。入学と同時に奨学金を得て、卒業まで主席を通し、さらに州政府の大学に入りました。そこでも奨学金を得ましたが、その額では州立大学の授業料を支払うと、ほとんど残りませんでした。そのとき、スリ・プルナ・チャンドラ・パール氏の援助によって、家に住むことができ、食事もさせてもらい大学に通うことができました。その翌年にはチャンドラ・パール氏の娘と結婚しました。

結婚した19歳の時、パールの心をとらえたできごとが起こります。アジアの小国日本が、ロシア帝国と戦って勝利を博したという報道が全インドに伝わったのです。彼は、このときの感動を次のように回顧しています。

「同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧憬と、祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私はインドの独立について思いをいたすようになった。」

祖国の独立を志したパールは、1909年にはポルトガルのリスボン大学で法科の過程を終え、その後、法学士の試験にもパスしました。1920年には法学修士の試験を一発でパスし、その4年後には法学博士の学位を得ました。

日本で行われた極東国際軍事裁判に参加したのは、パール博士が60歳の時でした。日本の戦争犯罪人を裁くという名目で行われたこの裁判は、判事が全員戦勝国側の人間であり、戦勝国によって都合よく進められた裁判でした。判決理由がなく、「平和に対する罪」という新しく導入された法理をさかのぼって適用するなど、法治社会における根本的な原則も無視されたものでした。その中で、国際法の専門家であるパール博士は唯一、被告の全員無罪を主張する意見書を書きました。しかし、その意見書は公表されることなく、いわゆる「A級戦犯」25名に有罪の判決が下り、7名に死刑が執行されるという結果となりました。通信制高校 裁判.jpg

最後にパール博士が日本に来日し、去る前夜にさよならパーティーが行われました。これは日本における最後のスピーチでしたが、そのスピーチでは、「いまやあなた方を裁いた国々もあなた方を注目している。私は日本を愛す、日本の美しい伝統をますます発揚し、その上に揺るぎない“独立”を確立して欲しい。そのためにはイデオロギーや利害を超え、民族として団結することが必要である。」と聴衆に説きました。

民族として団結したインドは、大東亜戦争後に独立を果たしました。実は、その過程で活躍した日本人も多数いたのです。日露戦争の勝利、大東亜戦争、インドの独立と私たちの先祖が世界に与えた影響はいずれも大きなものでした。日本に憧れを持って判事となり、日本の無罪を主張してくれた恩人のことを、私たちはしっかりと後世に伝えていきましょう。


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