日本史偉人伝

湯川 秀樹

2011.07.27

今から3年前の平成20(2008)年、3名の日本人がノーベル物理学賞を受賞しました。ノーベル賞は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルの遺言によってつくられた、科学者にとって名誉ある賞です。今回の偉人伝は、日本人として最初にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏を紹介します。

通信制高校 ノーベル賞湯川秀樹は、明治40(1907)年1月23日、地質学の教授であった父・小川琢治と母・小雪の三男として誕生しました。生まれは東京でしたが、父の転勤のため京都に引越し、そこで少年時代を過ごしました。当時の秀樹はおとなしく、目立たない子どもでした。特に家庭内では、兄弟と騒ぐことはあっても、何かで問いただされたときなど、弁解や言い訳をしようとせず、「言わん」といってよく黙り込んでいました。そのため、家庭では「イワンちゃん」と呼ばれていました。

京都府立第一中学校(一中、現在の洛北高校)に入学後、秀樹は数学にのめりこみました。その理由は、数学がもつ理路整然とした明晰さと、正しい道筋をたどれば必ず答えが出る単純さであり、問題が難しければ難しいほど、答えが得られたときに大きな達成感が得られ、何ごとにも代えがたいほどの喜びを与えてくれる点にありました。当時の森外三郎校長は、専門学校に入れたほうが良いのではと考えていた父の琢治に「秀樹君ほどの才能というものは、めったにない。秀樹君の頭脳というものは、大変飛躍的に働く。着想がするどい。それがクラスのなかで飛びはなれている。天才的なところがある。それは私が保証する。」と伝えました。もし、森校長の言葉がなかったら、もしかするとノーベル賞学者としての湯川秀樹はなかったかもしれません。

秀樹は、三高(第三高等学校、京都大学の前身)に進学後、哲学に関心を示すようになり、当時人気のあった西田幾多郎の哲学に惹かれていきました。その興味はだんだんと科学哲学、さらには自然科学へと移っていき、そして2年になって物理学の授業が始まると、秀樹は物理学に傾倒していきました。科学の中ではいちばん数学よりの学問だったからかもしれません。

秀樹の物理学への関心を決定づけたのは、フリッツ・ライヘというドイツの物理学者が書いた『量子論』という、ドイツ語の原著が英訳された書物でした。当時、量子論は誕生してまだ20年そこそこしか経っていない新しい物理学でした。当時の秀樹が「これまで読んだどんな小説よりもおもしろかった」と感じたほど魅力的な本でした。秀樹は、後にこの本との出会いを「私の今日までの50年を通じて、一冊の書物からこれほど大きな刺激、大きな奨励を受けたことはなかった」とまで述べています。

秀樹が大学に入学したとき、量子論はまだ四半世紀の歴史しか持たず、指導してくれる教官もいませんでした。勉強は外国から取り寄せた書物や論文が中心で、それらを片っ端から読んでいきました。新しい学問だったこともあり、毎日どんどん新しい成果が発表される世界です。それを追いかけるだけでも大変な努力を要しました。そのような中、失敗に失敗を重ね、昭和9(1934)年に「原子核内に陽子と中性子をつなぎとめる役割の新粒子が存在する」という「中間子論」を発表します。湯川秀樹の名声は、昭和22(1947)年、中間子が現実に発見されたことで不動のものとなりました。

湯川のノーベル賞受賞は、終戦後の日本の社会に勇気を与えました。当時、古橋廣之進が水泳で世界新記録を樹立し、日本人の自信がよみがえっていた頃でした。身体能力ばかりでなく、知性の面でも日本人が自信を取り戻した出来事でした。ノーベル賞受賞式後、晩餐会のスピーチで「私もうれしいが、私の国の国民が、私の今日の栄誉をどんなに喜んでくれていることかと思いますと…」のくだりで感極まり、しばし絶句し、涙をぬぐいました。この後、日本の戦後復興は本格化していくことになります。

科学技術の進歩は現在も日々続いています。これを読んでいる皆さんの中にも、多くの日本人に希望を与え、世界を代表する科学者になる人物がいると信じています。


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