日本史偉人伝

東郷 平八郎

2015.08.11

今回は、前回紹介した乃木希典とともに、日露戦争における海軍の戦いを指揮した、日露戦争当時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎を取り上げたいと思います。

東郷平八郎は、弘化4(1847)年12月22日、薩摩藩士東郷吉左衛門の四男として鹿児島城下に生まれ、元服するまでは仲五郎といいました。当時、鹿児島では「郷中教育」と呼ばれる戦国時代以来の武士教育を行っており、同じ下加治屋郷中から、西郷隆盛、大久保利通、大山巌(日露戦争時の満州軍総司令官)、山本権兵衛(後の首相、海軍大臣)などの人物が輩出されました。(郷中教育の詳細は、今月号の道徳授業をご覧下さい。)

文久3(1863)年、イギリス人が大名行列を横切り、薩摩藩士が切りつけた生麦事件に端を発する薩英戦争が勃発し、平八郎も従軍しました。当時のイギリス海軍はヨーロッパでも常勝の艦隊でしたが、薩摩側も善戦し、イギリス側に少なからぬ打撃を与えました。結局、イギリス側は上陸することなく戦いを断念し、鹿児島湾を去って行きました。この時、平八郎が感じたことは、「海より来れる敵は海にて防ぐべし」ということでした。この薩英戦争を経験したことにより、東郷平八郎は海軍を志したのです。

戊辰戦争に従軍後、明治4(1871)年からはイギリスに留学しました。留学の期間は7年に及び、西洋の国家と文明を直にその目で見たことは何よりも得がたい経験でありましたが、並々ならぬ忍耐強さを持ってひたすら謙虚に学びました。その経験により、後に「世界の東郷」と呼ばれるに至ったのです。

日清戦争前の明治24(1891)年、清国(現在の中華人民共和国)の北洋艦隊が来日しました。名目は日清親善のためでしたが、巨大艦「定遠」「鎮遠」を日本に誇示し、威圧することが目的でした。そんな中にも東郷平八郎は、軍艦の砲門に洗濯物が下げられ、甲板が不潔極まりない状態を見て、「恐るるに足らず」と直感しました。北洋艦隊の士気、精神のゆるみを見抜いたのです。実際、その通りに日本は日清戦争の海戦において勝利しました。

明治37(1904)年、ロシアとの間に日露戦争が勃発しました。海戦は、最初から連戦連勝ばかりであった訳ではありません。日本の戦艦6隻のうち、戦艦「初瀬」と「八島」が、ロシアの仕掛けた機雷にひっかかり沈没するという事態が起こりました。戦艦の二艦長が東郷の所に報告に来た際、東郷は動揺・困惑の表情を表すことなく、「ご苦労だった」「これから二人分働け」と励まし、早まって切腹することのないよう諭しました。さらに翌日、将兵を励ますため、各軍艦を回って歩きました。「東郷長官には神経がない」と部下は驚きの声を発したといいます。連合艦隊の将兵は、東郷の姿を見て落ち着きや勇気を取り戻したのです。

ロシアのバルチック艦隊との大一番となった日本海海戦の前に東京を発つ時、東郷平八郎は明治天皇に「恐れながら誓って敵艦隊を撃滅し、もって宸襟(天皇のお心)を安んじ奉ります」と力強く断言しました。その日本海海戦で、東郷平八郎は大胆な作戦を取ります。敵艦に近づき、距離が8000メートルまで縮まった時、敵前回頭を行いました。バルチック艦隊からすれば、同一地点で回転を行うため、絶好の目標となります。その通り、最初の数分間はすさまじい攻撃が加えられました。しかし東郷は、過去1年の経験から、7000メートル地点に入らなければ有効な打撃を受けないことを悟っていました。また、実戦経験と猛訓練を行った連合艦隊の砲撃はロシア側を圧倒し、バルチック艦隊の戦艦8隻を沈没もしくは捕獲しました。この勝利により、講和への道筋をつけることができたのです。

前回の乃木希典同様、東郷平八郎も現代の小学校・中学校の教科書にはなかなか掲載されていません。しかし、東郷平八郎は海外の世界史教科書で紹介されるほどの人物です。中東諸国では、名前に「ノギ」「トーゴー」と名づけた国もあるそうです。世界で歴史的に有名な日本人を、私たち日本人が知らないままでいることは恥ずかしいことです。特に、東郷平八郎は、将来国際社会で活躍する皆さんにはぜひ知って欲しい人物です。


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