日本史偉人伝

東条英機

2012.08.08

8月15日は、終戦記念日。大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)が、昭和天皇の玉音放送で終戦を迎えた日です。今回取り上げる人物は、大東亜戦争開戦時の総理大臣であった、東条英機元首相です。通信制高校

東条英機は明治17(1884)年、東京にて軍人であった父・東条英教と母・千歳の間に生まれました。父の英教は、日露戦争で活躍し「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古と陸軍大学校で同期(一期生)であり、首席で卒業していた人物でした。英機も父と同じ道を進み、明治38(1905)年に陸軍に入隊しました。

東条英機が初めて頭角を現したのは、昭和11(1936)年のことでした。この年、陸軍の内部派閥である「皇道派」によるクーデターで、政府の要人が殺傷された二・二六事件が起こります。その際、東条は「皇道派」と対立する立場の『統制派』側の人物でした。事務処理能力に優れ、メモ魔でもあった東条は、皇道派の情報がぎっしり書き込まれたメモを活用して事件の鎮圧に大きく貢献したことを評価され、中国の関東軍参謀長に就任しました。

実際に政治に関わることになったのは昭和15(1940)年、東条が55歳の時でした。東条に政治への野心はなく、まさか後に首相にまでなろうとは本人を含めて誰一人予想もしていませんでした。陸軍大臣に就任する以前から東条は生真面目でとにかく規律に厳しい人物で、中国で兵団を指揮していた時も、特に軍紀(軍隊における風紀)に厳しく、現地の治安と軍の信頼維持に努めました。自身も、地位を利用して私腹を肥やすなどもっての他と、清廉で模範的な軍人であり続けました。また、部下や弱者にはとてつもなく優しく、涙もろい性格でもありました。東条の在任中に、アメリカは日本への石油禁輸に踏み切り、圧迫を強めました。

昭和16(1941)年、皇居に呼ばれた東条は、対米交渉で行き詰った近衛文麿首相の後を引継ぎ、昭和天皇から首相の大命を受けました。天皇陛下のために尽くすことを第一に考えた東条は、すぐさま昭和天皇の意思を受けて戦争回避に向けて全力で取り組みましたが、世論は開戦論が大勢を占め、アメリカ側は「ハル・ノート」という最後通告を日本に突きつけ、開戦以外に道はない状態でした。開戦が決まり、開戦前日の朝、東条は和平を望む昭和天皇の意思に応えられなかったことを悔いて、皇居の方角に向かって号泣しました。

同年の12月8日、ついに大東亜戦争が開戦されました。緒戦は破竹の勢いで勝利を重ねていきましたが、徐々に戦況は悪化し、国民の生活に影響を与えるまでになりました。そんな中、東条は早朝、民家のゴミ箱を覗いて歩いていました。国民生活を心配し、きちんと食糧の配給が行われているかを確かめるための行動でした。さらに、昭和18(1943)年11月には、東条を議長にアジア各国代表を集めた大東亜会議が開催されました。そこで採択された大東亜宣言は、「大東亜戦争はアジア解放のための戦争である」という理念の宣言であり、大きな意義を持っていました。さらに戦況が悪化した昭和19(1944)年7月、サイパン島を奪われ絶対国防圏が破られた責任をとり、内閣を総辞職しました。

終戦後の極東国際軍事裁判で、東条英機は「平和に対する罪」で、いわゆるA級戦犯として裁かれ、絞首刑を宣告され、刑が執行されました。その中にあって、東条は日本の国を守るため、皇室を守るために証言台に立ち続けました。皆さんがこれまで学んだ歴史の授業では、東条英機は「戦争を起こした極悪人」というイメージがあるかもしれません。私もかつてはそう思っていた時期もありました。しかし、当時は、いつもギリギリの場面でギリギリの選択を行ってきたのです。

今年で終戦後65年を迎えます。現在の、安心して暮らすことのできる、平和な状態があるのはその時代を必死に生き、戦った先祖のおかげであることに感謝し、充実した高校生活を送りましょう。


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