日本史偉人伝

吉田茂

2012.07.01

今回は、大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)終戦後、日本がサンフランシスコ講和条約を結び、再び独立を果たした際の内閣総理大臣であった吉田茂氏を取り上げます。元・内閣総理大臣の麻生太郎衆議院議員の祖父に当たる人物です。

明治11(1878)年9月22日、高知県出身で、自由民権運動に参加した竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれ、明治14(1881)年8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商・吉田健三の養子となりました。少年期は、神奈川県の大磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、耕余義塾(明治時代にあった私塾)に入学し、明治27(1894)年4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩きました。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおきますが、商売は性が合わないと悟り、退校。正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶応義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しましたが、いずれも中退しています。明治34(1901)年9月、学習院大学科に入学し、このころにようやく外交官志望が固まりましたが、大学科閉鎖に伴いさらに東京帝国大学(現在の東京大学)法科大学に移り、明治39(1906)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官及び領事官試験に合格しました。

吉田は外交官時代、中国やヨーロッパで長い時間を過ごしています。その間、第一次世界大戦、大東亜戦争という2つの大きな戦争が世界では起こっていました。

終戦後、幣原喜重郎内閣のもとで吉田は外務大臣となりました。外務大臣とはいうものの、当時は占領軍が外交権を握っており、「外交」の相手は占領軍です。その第一の仕事は、憲法改正でした。吉田は、天皇制を維持するために、憲法改正を最小限に止めたかったのですが、天皇制は維持されたものの、結局はGHQ(連合国最高司令官総司令部)が突きつけた草案ほぼそのままの形で昭和21(1946)年に公布されることになりました。これが現在の日本国憲法です。吉田にとって憲法改正の問題は、戦勝国アメリカとの「外交」問題だったのです。

吉田にとっての日本の最優先課題は、主権を回復し、再び国家として独立することでした。昭和26(1951)年にサンフランシスコで開かれた講和会議に、吉田は日本の総理大臣として参加しました。このとき、講和条約の結び方については二つの考え方がありました。「全面講和論」と「単独講和論」です。「全面講和論」は、戦争に関係した、55か国全ての国々と自由主義国や共産主義国など関係なく講和を結ぶという考え方で、「単独講和論」は、共産主義国を除く48か国とだけ講和を結ぶ考え方でした。吉田はどちらの論をとったのでしょうか?実は、吉田は当初から単独講和論者でした。そして、そんな折に朝鮮半島では、ソビエト連邦(ソ連:現在のロシア連邦)が支援する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)に攻め込み、朝鮮戦争が始まりました。日本に非常に近い場所で起こったこの戦争は、日本人に共産主義国の脅威を感じさせ、世論は吉田の唱える「単独講和論」に傾いていったのです。そして、サンフランシスコ講和条約は締結されました。

講和条約が締結された同日、今度はアメリカとの日米安全保障条約の調印が行われました。日本国内では、「講和には賛成だが、安保条約には反対だ」という声が大きかったのですが、吉田は「安保条約は不人気だ。政治家がこれに署名するのはためにならん。おれひとり署名する。」といい、責任を一人で引き受けました。

最初に紹介した麻生前首相は、著書の中で、吉田茂の言葉を紹介しています。「日本人のエネルギーはとてつもないものだ。日本はこれから必ずよくなる。日本はとてつもない国なのだ。」これは、平成の時代を生きる私たち日本人に宛てたメッセージではないでしょうか。そして、私たちも未来の日本人が誇りに思えるような国にしていかなければなりませんね。


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