日本史偉人伝

樋口季一郎

2013.01.03

以前、外交官の杉原千畝氏を紹介しました。しかし、ユダヤ人を助けた日本人は杉原氏だけではありません。陸軍の軍人であった樋口季一郎少将も、ユダヤ人難民の生命を救った人物として知られています。

 樋口は、ポーランド駐在武官として勤務していた昭和初年、ソ連国内を1ヶ月ほど旅行しました。その際、一人のユダヤ人の老人から次のような不思議な話を聞きました。「日本は太陽の昇る国で天皇という方がいる。その天皇こそがメシア(救世主)なのだと思う。あなたたち日本人はわれわれユダヤ人が悲しい目にあったとき、いつかどこかできっと助けてくれるにちがいない。」ユダヤ人は、ソ連で迫害された民族だったのです。

 それから10年後の昭和12(1937)年8月、樋口は満州の関東軍ハルピン特務機関長として赴任しました。翌年の3月8日、樋口のもとに重大な情報がもたらされました。満州と国境を接したソ連領のオトポールの駅で吹雪の中、二万人のユダヤ人が立ち往生しているというのです。ナチス・ドイツの迫害を逃れ、零下30度のシベリアから3000キロを無蓋列車につめこまれてきて、満州国の外務部に入国を拒否されたためでした。ヒトラーが率いるドイツは昭和8(1933)年からユダヤ人の迫害を始めました。日本は、ソ連とその共産主義の脅威に対抗するためにドイツとの間に日独防共協定を締結しました。こうした中で、日本と一体の関係にあった満州国は、ユダヤ人の入国を認めると関東軍の意向に反することになるのでは、と恐れたのです。

樋口のもとには、ハルピンユダヤ人協会の会長、カウフマン博士が要望のために訪れ、哀願するような声で言いました。「私には、同胞たちの絶望的な様子が、目に見えるように分かるのです。同胞は飢え、凍え、つぎつぎに死んでゆくのです。二万人ものわれわれの仲間が…。」

樋口は迷いました。その時、頭をよぎったのは、以前にユダヤ人の老人から聞いた言葉でした。『あなたたち日本人はわれわれユダヤ人が悲しい目にあったとき、いつかどこかできっと助けてくれるにちがいない。』

(よし、おれがやろう。おれがやらずにだれがやるというのだ。あの老人のために、今こそ、本当の勇気がいるのだ。)樋口は決意し、カウフマン博士に伝えました。「博士!難民の件は承知した。誰がなんと言おうと、私が引き受けました。」そういうと早速、南満州鉄道株式会社の松岡総裁と連絡を取り、交渉を始めました。それから2日後、凍死者十数人を除くオトポールの難民全員がハルピンに収容されたという報告がありました。この列車の手配があと1日でも遅れていたら、さらなる犠牲者が出ただろうと言われています。

 2週間後、ドイツからこの件に関して抗議があり、樋口は関東軍司令部に呼び出されました。そこで尋問したのは、後の総理大臣となった東条英機でした。樋口は堂々と持論を展開し、「東条参謀長!あなたはどのようにお考えになりますか。ヒトラーのお先棒をかついで、弱いものいじめをすることを、正しいとお思いになりますか。」と東条に迫りました。東条は、「あなたの話はもっともである。私からも中央に対し、この問題は不問に付すよう伝えておこう。」と、樋口の論に納得し、認めました。

 戦後、ソ連は樋口を戦犯として引き渡すよう要求しましたが、当時日本を占領したアメリカのマッカーサー総司令官はこれを拒否しました。樋口に助けられた世界各地のユダヤ人たちが団結し、アメリカに「樋口を救え」と運動したのです。ユダヤ人の義理堅さと誠実が、アメリカまでも動かしたのです。

ユダヤ人国家であるイスラエルのエルサレムの丘の上に、ユダヤ民族の幸福に力を貸してくれた人々の恩を栄久に忘れてはならないとし、「ゴールデン・ブック」という黄金の碑が立てられています。その中の、上から4番目に樋口の名が刻まれています。

『偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口』碑石にはこう刻まれているそうです。


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