日本史偉人伝

鳥浜トメ

2011.10.13

鹿児島県の知覧という場所に、「知覧特攻平和会館」があります。その場所は、かつて特攻隊の基地があり、多くの若者が飛び立った場所でした。当時、特攻隊員として訓練を受けていた若者たちにとっての一番の楽しみは、基地の近くにある「富屋食堂」に行くことでした。今回は、その富屋食堂を切り盛りしていた、鳥浜トメさんを取り上げます。

 鳥浜トメは、明治35(1902)年、鹿児島県の南端、坊津町に生まれました。家は裕福ではなく、8歳で子守りの奉公に出され、以降はずっと働き続けたために、学校に行ったのはわずかな期間で、奉公先で、捨てられていた紙を拾い習字の練習をしていたそうです。18歳になると、加世田というところの竹屋旅館で働き始めました。そこで、夫となる鳥浜義勇と出会いますが、鳥浜家は天皇陛下から姓を賜った名家という意識が強い義勇の母は、結婚に反対でした。二人は知覧に新居を持ち、トメも家計を支えるために行商を始めました。

 そして、二人は昭和4(1929)年に知覧の商店街に富屋食堂を開きました。月並みな店ではありましたが、トメの人柄を反映していつも明るい空気が漂っており、やってくる人々を自然にリラックスさせてくれるものがありました。トメは警察署にも役場にとっても信頼の厚い重要な人物であり、昭和17(1942)年に知覧に飛行学校ができた際、町はためらうことなく富屋を軍の指定食堂に推薦しました。トメが40歳の時でした。それは一種の運命の出会いでもありました。

 少年兵たちの口コミで、富屋の話は瞬く間に兵舎の中に広まりました。トメは彼らを親身になって世話しました。少年たちには、肉親と離れて暮らしていることもあり、トメの言葉の一つひとつが母の声に聞こえました。たちまちのうちに富屋食堂は、少年兵たちの日曜日のオアシスになっていました。しかし、昭和20(1945)年3月になると特攻隊の出撃が始まり、それ以来、若者たちはわずか四・五日の滞在で沖縄に向けて飛び立っていきました。そんな中でもトメは、農家から取り寄せた新鮮な野菜や卵を食べさせたり、物不足で手に入らない石鹸や薪を買ってきて入浴させたり、託された遺書の送付や遺族に手紙を書いて送るなど、精一杯尽くしました。また、「明日には命を捧げていく方からはお金はいただけない」という気持ちから、トメはほとんどお金をとることがありませんでした。そのため、自分の持っていた着物や飾り棚、ついたてなどの調度品、家財道具まで売り払ってお世話をしていきました。

 特攻隊による決死の戦いも功を奏さず、日本は終戦を迎えました。それとともに、特攻隊に対する世間の目は冷たくなっていきました。富屋食堂も、「軍隊でもうけた富屋」と陰口をたたかれました。しかし、トメの隊員への思いは少しも変わりませんでした。「国のために死んでいったあの子たちを忘れさせてはならない」と、残っていた飛行機が燃やされる日、二人の娘とともに飛行場の片隅に小さな棒杭を立て、娘たちにこう語りました。「あの人たちはお国のために尊い命を犠牲にしたんだよ。たった一つしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけないことなんだよ。」それ以後、親子三人は墓参りを続けました。それは、やがて遺族や関係者を動かし、1955(昭和30)年9月には「特攻平和観音堂」を建立、トメは毎日花と線香を持ち、慰霊と清掃に通う日々が続きました。

 昭和62(1987)年には、観音堂の横に「知覧特攻平和会館」が建設されました。ここには特攻隊員の遺書や遺品が数多く陳列されています。現在では全国から大勢の人々が訪れて、特攻隊員の姿に目頭を熱くしています。これも戦後、トメが特攻隊の人々の慰霊と顕彰に身を捧げてきた献身的努力の賜物です。

 トメは、平成4年(1992)年4月22日に、89歳で生涯を終えました。知覧特攻平和会館には、今も一日平均1,500人の人が訪れています。私たちも、現在、平和に暮らすことができていること、未来の日本を守ろうとした人々に感謝しながら毎日を大切に過ごすことが必要です。


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