日本史偉人伝

佐久良(さくら) 東雄(あずまお)

2019.01.25

今回は、幕末期に和歌や国学の研鑽に励み、維新の志士たちとも交流のあった佐久良東雄を紹介します。

 

明治維新の先駆の一人、佐久良東雄は、文政8(1811)年3月21日、常陸国(ひたちのくに)新治(にいはり)郡(現在の茨城県石岡市)に生まれました。信仰心の厚い少年で、近くの八幡宮を信仰していました。9歳の時に近くの観音寺の住職・康(こう)哉(さい)の弟子となり、15歳の時に寺に入り、名を良(りょう)哉(さい)と改め、22歳まで康哉に師事しました。25歳になると、良哉は土浦にある善応寺の住職となり、修行のかたわら国学・和歌を学び、わが国の歴史伝統の尊さに目覚めました。特に、万葉集第14巻の東(あずま)歌(うた)と第20巻の防人(さきもり)の歌を愛誦しました。和歌・国学の造詣の深さは、この頃にはよく知られるようになっており、良哉を訪ねてくる人が相次いでいました。尊王の心も篤く、最高の忠臣として慕った人物は楠木(くすのき)正成(まさしげ)でした。ある時、水戸藩の藤田東湖から出仕を熱心に勧められましたが、「我に主人あり」と言って謝絶しました。東湖が不思議に思い、「主人とは誰なりや」と尋ねたところ、「申すも恐れ多けれども、京都にまします天孫今上陛下こそ東雄の主人なり」と答えたという話も残っています。

天保14(1843)年、東雄が33歳の時、仏門を離れ還俗(げんぞく)して真の日本人として生きる覚悟を固めました。その2年後には上京し、次の歌を詠みました。

日の本の やまとの国の 主にます わが大君の みやこはここか

御所の石垣は崩れている状態でしたが、修理されていませんでした。当時、皇室の

費用は幕府に厳しく制限されていたことが、その理由でした。東雄は、涙を流して

次の歌を詠みました。

いまに見よ 高天原(たかあまはら)に 千木(ちぎ)高(たか)知り 瑞(みず)の皇居(みあらか) つかへまつらむ

(やがて王政復古を成し遂げ、千木の高く並ぶ堂々たる皇居をご造営申し上げます)

東雄は上京後、和泉国(現在の大阪府)で神職をつとめながら国学や和歌を心ある人々に教授し、王政復古の実現を熱烈に祈り願いました。

嘉永元(1847)年からは、大阪の坐摩(ざま)神社の神職(祝(はふり)部(べ))として奉仕します。坐摩神社の創建は古く、神武天皇建国時と伝えられており、皇居守護の神社として代々朝廷の崇敬の厚いところでした。神功皇后の時代には、皇后はご自身の安産をこの神社に祈願され、安産の神社としても名高い場所でした。嘉永5(1852)年春には、孝明天皇の皇子御降誕御安産の祈願依頼があり、東雄も祈りに祈りを重ねました。9月22日、早飛脚が到着し、内容を読むと「皇子(おうじ)御機嫌よく…」と書かれていました。皇子は、祐宮(さちのみや)睦(むつ)仁(ひと)親王と申し上げました。後の明治天皇です。大君を思う「恋闕(れんけつ)の心」は、さらに高まっていきました。

そのような中、ペリーの来航という国難が襲います。徳川幕府は、軍事力を背景とした砲艦外交に屈し、志士たちは憤慨しました。東雄もその一人です。安政5(1858)年には、アメリカ総領事ハリスとの間に日米修好通商条約が結ばれました。大老の井伊直弼が孝明天皇の詔勅に違反して締結したばかりに、明治期の日本は、この改正に労力をつぎ込むことになります。日本の独立を守り抜こうとする孝明天皇の「攘夷」の御心に、東雄ら志士は命がけで応えようとしました。

万延元(1860)年、桜田門外で井伊直弼は水戸・薩摩両藩士により討たれました。この中心人物の一人が、水戸藩士の高橋多一郎でした。大阪において東雄らにかくまわれていましたが、幕府の役人に襲われ、息子とともに自刃しました。東雄は高橋をかくまった罪により捕らえられました。尋問を受けても、「国家のために何ぞ逃がるるべき拙者にあらず。速やかに首を放て」と言い放ちました。佐久良東雄は、それ以後絶食し、その年の6月27日、命を絶ちました。50歳でした。

佐久良東雄は、遺言の中でこう述べたそうです。

「皇国のみひとり天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)より御血統続きましまして今日に至り、天地のあらん限りこの如くならん事全く不思議の神国(しんこく)故のことと深く有難く忝(かたじけな)く心得明らむべし。かような有難い御国に生まれ候(そうろう)事、なんと涙の流るるほど嬉しいことではないか」

2,600年以上の歴史を持つ皇室を戴く、我が国日本。私たち自身がその歴史をきちんと知ることが何より大切です。


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