今回は、明治時代、内村鑑三により『代表的日本人』に取り上げられ、米沢藩を再興した人物として有名な上杉鷹山を紹介します。
上杉鷹山は、宝暦元(1751)年7月20日、日向国(現在の宮崎県)高鍋藩主であった秋月種美(たねよし)の次男として江戸に生まれました。米沢藩(山形県)第9代藩主の上杉重定(しげさだ)と、鷹山の祖母が親戚関係にあり、重定に後継ぎがなかったため、「聡明で孝心が篤い」と薦め、鷹山は10歳の時に重定の養子となりました。
その際、秋月家の家臣・三好重道(じゅうどう)は、鷹山を気遣い、教戒書を渡しました。
「ご両親様への孝行の第一は養家へ心を尽くして仕えるのが大事です。養家が治まらなければ大の恥辱です」
「人の上に立つ身は何事も謙譲深くし、自分は知恵があるとうぬぼれてはなりません」
これらの言葉は、少年であった鷹山の心に深く刻まれました。
明和3(1766)年、16歳の鷹山は将軍家治の前で元服し、将軍より一字をもらい治憲と改名しました。翌年、藩主重定が隠居し、鷹山は17歳で家督を継ぎました。その時、すでに上杉家では借財が20万両(現在の貨幣価値で約120億円)に達しており、藩の財政は破綻寸前でした。その時、鷹山は次の和歌を詠みました。
「受けつぎて 国の司の 身となれば 忘るまじきは 民の父母」
国司(藩主)とは、民の父であり母である。今、自分がその立場になったからには、民の父母としての心がけを片時も忘れないようにする、という決意を込めた和歌です。
そのため、藩主としての最初の仕事は、倹約の徹底でした。衣類は簡素な綿服を着用し、食事は粗末な一汁一菜にとどめ、それを家臣にも求めました。一方、産業の奨励として、奉行の竹俣(たけまた)当綱(まさつな)は、直接の増収を図るため、まず漆(うるし)・桑(くわ)・楮(こうぞ)を各100万本ずつ増植し、15万石相当の実益を10年後に上げようとする壮大な計画を立案し、実施しました。また、養蚕と織物の奨励、特産の青苧(あおそ)(繊維として活用)を用いた縮布(ちぢみぬの)の国産化などの新分野も開拓しました。家臣に奉仕させ荒れ地を開墾する農地開発も行いました。貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていましたが、鷹山は、彼らに小さな川、池、沼の多い米沢の地形を利用した鯉の養殖を始めました。美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ、老人は稼ぎ手としての生きがいと誇りを取り戻していったのです。鷹山は、藩から領民に対して必要な「扶助」を施しながら、武士や農民の「自立・自助」を促し、同時に村全体で助け合う「互助」の形を作り上げていくものでした。
鷹山は35歳で隠居しますが、その際に後継ぎの治(はる)広(ひろ)へ与えた「伝国(でんこく)の辞」があります。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候(そうろう)国家にして我(われ)私(わたくし)すべき物にはこれなく候(そうろう)
(国家は先祖から子孫に伝えるものであり、君主が私物化できるものでは決してありません)
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
(人民は国家に属し、君主が私物化できるものでは決してありません)
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれなく候
(国家人民のために君主がいるのであり、君主が身勝手に振るまって良い訳では決してありません)
上杉鷹山は隠居後も治広の後見として藩政全体を見渡し、文政5(1822)年3月12日、72歳の生涯を閉じました。葬儀の日には、何万もの嘆き悲しむ人々が道端を埋め尽くしたそうです。その翌年、鷹山が家督を継いで56年後に、藩は借財をほとんど返済しました。長い時間をかけて鷹山は目的を達成したのでした。まさに鷹山本人が残した言葉の通りとなりました。
「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」