今回は、近世で最大の私塾「咸(かん)宜(ぎ)園(えん)」を主宰した、広瀬淡窓を紹介します。
広瀬淡窓は、天明2(1782)年4月11日、豊後国日田(現在の大分県日田市)の
商家・広瀬家に、父・三郎右衛門と母・ユイの長男として生まれ、通称を寅之助と
いいました。2歳の時、伯父・平八の下で養育されるようになり、秋風庵という場
所に移りました。静かな田園風景の中でのびのび育ったことが、淡窓の豊かな感性
を育んだと考えられています。6歳で父のもとに戻った淡窓は読書に励み、8歳の
冬には「四書」(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)全てを読み終わり、さらに『詩経』
の句読を近くのお寺で教わるほどに熱中していました。16歳になると、福岡の亀井
南冥が主催する亀井塾で『礼記』や『孟子』の講義を受け、淡窓は大きな影響を受
けました。
享和2(1802)年になると、21歳になった淡窓は、近くの寺で行われていた講義を引き継ぎ、少年6~7名に対して講義を始めました。淡窓にとって、子どもたちに対して講義を行うのはこれが初めてでした。文化2(1805)年3月には、長福寺の寮を借りて初めて塾を開き、さらに同じ年の8月には転居し、「成章舎」と名付けた塾を開きました。文化4(1807)年には、入門者の増加に伴い、学舎「桂林園」を新築しました。この頃には、塾生は20人ほどになっていました。
文化14(1817)年の春、淡窓は桂林園を移設し、「咸(かん)宜(ぎ)園(えん)」を開きました。江戸期には、全国に私塾が数多くできましたが、近世最大の私塾は、淡窓が開いた咸宜園でした。この塾名の由来は、『詩経』の中の言葉「咸宜(ことごとくよろし)」から名付けられたと言われています。「ことごとくよろし」とは、全てのことがよろしいという意味です。塾生は、毎朝5時に起きて起床し、6時から7時まで輪読、食事の後8時から正午まで学習、昼食後1時から5時まで輪講・試業(試験)、6時に夕食、7時から9時まで夜学して10時に就寝するという日課でした。
淡窓独特の教育方針において特徴的だったものは3つ、三奪(さんだつ)の法、月旦評(げつたんひょう)、分職でした。三奪の法とは、入門時に年齢・学歴・身分の3つを奪い、横一線に並ばせ、その後は塾内における勉学の状況で優劣が決まるやり方でした。月旦評とは、毎月はじめに前月の全塾生の成績を厳正に評価し、一覧表にして公表したものです。これにより、塾生の努力・やる気を促しました。分職とは、全員に塾内の仕事を与え、職務分担をさせることです。淡窓は共同生活を重視して塾生が人格・学問共にすぐれた人物になることを願いました。こうした淡窓の教育のやり方が評判を呼び、全国から人々が駆けつけたのです。50年間の中で約3,000人の人々が学び、塾生が来なかったのは下野、甲斐、隠岐、大隅の4か国だけでした。
淡窓は学者・教育者・詩人として超一流でしたが、何よりもすぐれた人格の持ち主でした。54歳のとき、日々善事を積み重ね、「一万善」を達成する決意をしました。毎日、善いことを行い、3つ行ったならば白丸印を3つつけ、悪いことを2つ行ったときは黒丸印を2つつけるものでした。その差し引きで、67歳の時には一万に達しました。さらにそれを73歳まで続け、さらに五千善を加えるほどになりました。
安政3(1856)年11月1日に広瀬淡窓はこの世を去りました。生涯かけて内
省と修養、積善積徳に努めた人物でした。