日本史偉人伝

二宮(にのみや) 尊徳(そんとく)

2019.01.15

今回は、江戸時代に農村の復興事業に多数関わり、内村鑑三の著作『代表的日本人』により海外にも紹介された二宮尊徳を紹介します。

 

二宮尊徳(金次郎)は、天明7(1787)年7月23日、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市)に、父・利右衛門と母・よしの長男として生まれました。家は裕福な農家でしたが、5歳の時に村一帯を襲った暴風雨により、近くを流れる酒匂川が決壊し、一夜にして一帯は荒れ地となってしまいました。利右衛門は、率先して土手の工事に出ましたが、金次郎が11歳の時に無理がたたって病気になってしまいました。金次郎は、母を助けて昼間は田畑の仕事、夜は縄ないと一日中働き続けました。そのかいもなく、金次郎が14歳の時に利右衛門は他界してしまいました。金次郎は、一家を支えるためにこれまで以上に働き始めました。

金次郎は、この頃から読書を始めました。山へ薪を採りに行く途中、儒教の経典である「四書」の中の『大学』や『論語』を、大きな声を出して読みました。『大学』の中に次の一節があります。「天子より庶民に至るまで皆修身を以て本と為す(身分の高い低いに関わらず、誰もが立派な人間となるために身を修めることが必要不可欠である)」金次郎は、この一節を支えにして、努力を積み重ねました。そんな中、金次郎が16歳となる年に、母・よしまでもが他界してしまいます。さらには、わずかに残っていた6反あまりの土地も流失してしまい、不幸のどん底を味わうことになります。弟2人は母の実家、金次郎は伯父の萬兵衛のもとに預けられました。萬兵衛の家で、夜遅くまで仕事をした後に読書をすると、「油代がもったいない」と叱られます。金次郎は、空き地に菜種をまき、それを育てて油を得ました。それでも、「無益な学問をするくらいなら、深夜まで縄をなえ」と言われます。金次郎は、さらに遅くまで縄をない、萬兵衛が寝静まった頃に行燈を衣で多い、火が漏れないようにして読書をしました。

17歳の時、金次郎は村のあちこちに捨苗が転がっているのに気づきました。そこで捨苗を拾い集め、古堀のあとを開墾して水田を作り、捨苗を植えてたんねんに育て上げました。すると、秋には一俵(約60キロ)もの米を収穫することができました。この経験から、「小を積んで大を為す」(積(せき)小(しょう)為(い)大(だい))ということが自然の道であると感じ取ったのでした。

18歳で伯父の家を離れた金次郎は、20歳になる2月に、家の再興に取りかかりました。その結果、24歳の時に一町四反(約1.4ヘクタール)の自作農として再興することができました。31歳の時には、村で2番目の地主となっていました。

36歳の時、金次郎に小田原藩主の大久保忠真から声がかかります。一度廃れた家を再興し、家老であった服部家の家政を立て直したことに注目し、藩の財政再建をしてほしいという要望でした。金次郎は、一度は断りますが、大久保の決意が不動のものであることを知り、引き受けました。最初に任されたのは、飛地であった下野国桜町領(現在の栃木県二宮町付近)の再建でした。元々、桜町領の年貢は3000俵ほどありましたが、この当時は700俵の収入しかなく、村人の勤労意欲もなくなり荒れ地が広がっていました。金次郎は、極貧者の救済、善行者の表彰、荒地開墾と用水路・道路・橋の修復、神社・寺社の修復、無利息金の貸付の5つを方針とし、再建に動き出しました。自らも、朝4時起床、夜12時就寝の生活を15年間続けました。7年たったころ、一部の反対派により、再建事業が行き詰りそうになったことがありました。このとき、金次郎は成田山新勝寺で21日間の断食修行を行いました。事業がうまくいかないのは反対者の妨害のためと考えていた金次郎でしたが、自分こそ正しいと考える心が驕(おご)りを生み、自分の徳の至らなさがあったということに考え至りました。一方、突然金次郎が姿を消したことで、桜町領はパニックに陥り、多くの村人が探し回りました。断食修行が満願成就を迎えた日に、ちょうど村の代表者が成田山まで金次郎を迎えにきました。村人はみな涙を流して迎えたそうです。そして桜町領は、天保2(1831)年に再建が成就しました。

天保13(1842)年、幕府に登用され、尊徳(たかのり)と名乗るようになります。(農村復興の神様とたたえられ、歴史上の人物となってからは有職(ゆうそく)読みで尊(そん)徳(とく)と音読みされています。)その後も、相馬藩の復興などを成し遂げ、幕府領であった日光神領の復興途中の安政3(1856)年10月20日、70歳でこの世を去りました。日光の復興は、息子の彌(や)太(た)郎(ろう)や、弟子の富(とみ)田(た)高(こう)慶(けい)の手により、16年間継続され、大きな成果を挙げました。

『代表的日本人』を著した内村鑑三は、二宮尊徳についてこう述べています。「英米人の最も驚嘆せしは二宮尊徳先生なりしという。…英人は…シェークスピアその人を生じたるをもって光栄となすという。しからばわが日本は、この二宮先生を有するにおいて至大の光栄となすべきか」日本が誇る大人物として、二宮尊徳の生き方をぜひ生徒の皆さんにも知ってほしいと思います。


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