日本史偉人伝

毛利(もうり) 敬親(たかちか)

2019.01.05

今回は、吉田松陰ら維新志士が活躍した時代の藩主であった、毛利敬親を紹介します。

 

毛利敬親は、文政2(1819)年2月10日、長州藩11代藩主であった毛利斉元の長男として生まれました。父が亡くなった後、第12代藩主となった毛利斉広も1か月足らずで亡くなり、天保8(1837)年、敬親が斉広の養子となって家督を相続し、13代藩主に就任しました。

村田清風を登用して藩政改革を断行し、村田の亡き後は坪井九右衛門を登用しました。天保12(1841)年には、江戸に文武修行の場である藩校有備館を建設、天保14(1843)年には萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも努めました。嘉永2(1849)年には藩校明倫館の改革も断行しました。

人材育成にも尽力し、家柄や年齢にこだわらず、11歳年下で下級武士の息子である吉田松陰の才能を評価して重用しました。敬親は松陰のことを「儒者(儒学者)の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったといいます。長州の志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存しています。

敬親は、「そうせい候」と呼ばれました。その理由は、家臣が「この件は、このようにしてよろしゅうございますか」と聞くと、敬親は決まって、「うむ、そうであるか。そちがそのように望むのであれば、そうせい」と承認する意志を示すことからでした。しかし、正反対の案を別の家臣が出しても、「そうせい」と返事が返ってくるため、これには家臣たちが弱り、控えの間では「おまえの案にもそうせいという。おれの案にもそうせいとおっしゃった。どっちにすればいいのか迷う。」と会話が交わされたといいます。しかし、それにより、家臣の意識が変わってきました。「殿様がなんでも『そうせい』とおっしゃるのは、『何をやってもよい、その責任は全て私が負う』という意味ではないのか」と感じるようになったのです。そんな家臣の気持ちを察し、家老はこう言いました。「これからは殿にお伺いを立てるときは、必ずこの広間でみんなで討議しあおう。そして私がまとめる。いきなり殿に丸投げをしてはならない。」もちろん、全員承知しました。

ただ、唯一、年に1回だけ敬親が「そうせい」と言わない日がありました。それは、正月でした。毎年、長州藩の家老が「明けましておめでとうございます」という代わりに、「今年はいかがいたしましょうか」と聞き、藩主は「いや、まだよかろう」と答えます。それが「おめでとう」の意味に当たります。これは、関ヶ原の戦いの直後から始まっています。関ヶ原の戦いで西軍側として戦った毛利家は、所領を3分の1に削られ、その居城も萩に移され、徳川家に対し強い反感を持っていました。「いかがいたしましょうか」の前には「徳川家を」という言葉が隠れているのです。しかし、慶応3(1867)年の正月、家老が「殿、今年はいかがいたしましょうか」と尋ねた時、敬親はこう言ったといわれています。「そうせい!幕府を倒せ!」この年、徳川慶喜はその通り政権を朝廷に返しました。これが大政奉還です。

 

毛利敬親は、明治2(1869)年に藩主の座を元徳に譲り、明治4(1871)年3月28日に58年の生涯を終えました。「そうせい」と言いつつ、家臣たちを競合させ、「そうせい」と言い続けたことで藩内でのバランスを取っていたとも考えることができるのではないでしょうか。間違いないことは、長州藩を維新の主力に押し上げたのは、この藩主・敬親だったということです。


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