日本史偉人伝

松下幸之助

2011.06.17

今回は、松下幸之助さんのことを取り上げたいと思います。松下幸之助といえば、電化製品で有名なパナソニックの創業者です。皆さんの家にもいくつかパナソニックの製品があるかも知れませんね。

幸之助は、明治27(1894)年11月27日、和歌山県に生まれました。8人兄弟の末っ子だった幸之助は両親に特にかわいがられて育ちました。家はかなりの資産家で、平穏な幼少時代を過ごしましたが、4歳の時に父親が米相場で失敗し、幸之助自身も小学4年生の11月、大阪へ火鉢店の奉公のために向かいました。仕事の内容は、拭き掃除をしたり、子守りの合間に火鉢を磨いたりするものでした。仕事そのものはそれほどつらいとは思いませんでしたが、故郷を離れたこころの寂しさには耐えられず、夜、店が閉まって寝床に入ると、母親のことを思い出して涙をこぼす日々が続きました。その後、自転車商会、電灯会社を経て、大正7(1918)年3月7日、妻のむめのと二人で松下電器器具製作所を創立しました。幸之助が23歳の年でした。

最初は手探りでのスタートでした。ソケットを考案・製造したものの、いくらで売ればいいか分かりません。そこで、ある問屋を訪れました。ソケットは扱ってもらえることになりましたが、問題は値段です。それで、「実は、いくらで売ったらいいものか、私には分からんのです。」と正直に話しました。原価を問屋に伝えると、「なるほど、原価がそのくらいなら、このくらいの値段で売ったらええな。」と考えてくれたり、世間の相場を考慮して値段を考えてくれる問屋までありました。商売を始めた当初は、こうした姿の繰り返しでした。

昭和7(1932)年ごろになると、松下電器は順調に歩みを進めていました。店員200人、工員約1000人の規模になり、製造品目も200点余りになるまでの規模に成長していました。しかし、自らの経営に何か物足りない一面を感じていました。そんな中、幸之助が思いついたことは、「産業人の使命」を確立することでした。昭和7年5月5日、全店員を大阪の堂島にある中央電気倶楽部に集め、松下電器の真の使命を明らかにしたのです。「…産業人の使命は貧乏の克服である。社会全体を貧より救って、これを富ましめることである。商売や生産の目的は、その商店や工場を繁栄させるのではなく、その活動によって社会を富ましめることにある。その意味においてのみ、その商店なり、その工場が盛大となり繁栄していくことが許されるのである。…松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産により、物資を無尽蔵にして、楽土を建設することである。」この日以来、松下電器の発展はさらに力強いものとなったのです。

終戦後の昭和21(1946)年11月3日、幸之助は「PHP研究所」を創設しました。それは、幸之助の、戦後の日本への思いからでした。「正直に、誠実に働いている人間がなぜこれほど苦しまなければならないのか。人間には本来、平和で幸せな生活を実現する力が与えられているはずである。衆知(多くの人の知恵)を集めて考えていけば、必ずや豊かで平和な生活、幸せな生活が実現できるはずだ。この世に物心一如の繁栄をもたらすことによって、真の平和と幸福を実現する道を探求しよう。」その願いに立ってPHP(Peace and Happiness through Prosperity=繁栄によって平和と幸福を)は生まれたのです。翌年の昭和22(1947)年には月刊誌「PHP」を創刊、現在まで続いています。

幸之助が亡くなる前、最後まで治療に当たったのは松下記念病院の当時の院長でした。院長が、気管にたまったたんをチューブで吸いだす際、「これから管をのどに入れます。ご辛抱下さい。」と声をかけると、幸之助はふりしぼるように「いやいや、お願いするのは私です。」と、低くかすれた声で答えました。それが幸之助の最後の言葉でした。平成元(1989)年4月27日、幸之助は亡くなりましたが、院長はこう語ります。「あのひと言は忘れることができません。苦しい病の床にありながらも相手を思いやる、松下さんのすべてを物語っている言葉だったと思います。」


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