日本史偉人伝

広瀬 武夫

2015.12.11

回は、明治時代の海軍軍人で、前回紹介した秋山真之とも親交のあった、広瀬武夫を取り上げます。

広瀬武夫は、明治元(1868)年5月27日、大分・岡藩士広瀬重武、登久子の次男として生まれました。父の重武は裁判所勤務で転勤を繰り返し、母の登久子は武夫が6歳の時に亡くなり、育ての親となったのは祖母の智満子でした。「お前たちの父親はのう、御一新(明治維新)の前にゃ、菊池の子孫らしゅう、見事な働きをしたもんじゃ」と広瀬家の誇りを教え、しつけの面では少しでも行儀が悪いと、竹のものさしで容赦なく手をたたきました。武夫の性格と立ち居振る舞いは、祖母の影響を大きく受けていました。

明治18(1885)年、武夫は海軍兵学校へ入学します。その頃から柔道を始め、講道館に入門しました。また、同期の財部(たからべ)彪(たけし)と柔道をしている所をたまたま見た海軍兵学校の校長が、講道館の館長・嘉納治五郎と面会し、柔道を海軍兵学校の正課としたという話も残っています。明治23(1890)年の講道館紅白大試合では五人抜きを達成し、初段から二段への昇格を許された実力を持っていました。

明治30(1897)年、広瀬武夫はロシアに旅立ち、駐在武官として約4年間滞在することになります。軍事以外にも、語学、歴史、文学を学び、現地の人々とも交友関係を結びました。そこからの帰国中、武夫は、知り合いの少年と交わした、ロシアの切手をお土産に持ち帰るという約束を思い出しました。帰りはシベリア横断で、大変な危険が予想されました。「自分が死んだならば、どんなにがっかりするだろう」と考えた武夫は、出発前にロシアの切手を買い、日本にいる兄に託しました。このエピソードは、大正4(1915)年、小学校の修身(現在でいう道徳)の教科書に、「やくそくを守れ」という題で掲載されました。

広瀬武夫は、戦艦「朝日」の水雷長に任ぜられ、明治37(1904)年のロシアとの間に勃発した日露戦争を向かえました。当初、連合艦隊はロシア太平洋艦隊に苦戦し、さらに、大西洋からバルチック艦隊が向かうという情報を得ました。そのため、老朽化した汽船を湾の入口に沈め、旅順港に停泊している太平洋艦隊を閉じ込める作戦を推進しました。この作戦は危険なため、志願者を募ることにしましたが、2,000名以上が志願し、67名が選考されました。広瀬武夫もその中にいました。第一次作戦では、「報国丸」に乗り組みましたが、失敗に終わります。第二次作戦の際も志願し、同じく2,000名以上の志願者の中から、56名の乗組員の中の一人に選ばれ、17名の乗組員とともに、「福井丸」に乗り組みました。前回の作戦を経験したロシア側は、再びの襲来に備えて準備をしていたため、攻撃はすさまじいものでした。「福井丸」が錨を投じようとした瞬間に魚雷が命中し、浸水が始まりました。カッターを準備し、隊員の集合を待ちましたが、一人足りません。杉野孫七兵曹が行方不明でした。他の隊員とともに、「杉野、杉野!」と呼びかけながら探しますが、見つかりません。「どうだ、杉野は戻ったか」「まだです。まだ戻りません」「わかった。もうしばらく待て」このようなやりとりが続き、本船が沈み始めたために、やむなくカッターに乗り込み、船から離れました。敵の銃弾が飛び交う中、広瀬は、「おれの顔を見て、しっかり漕げ」と激を飛ばします。しかし、その直後、わずかな肉片を残し、広瀬の姿はそこにありませんでした。36歳という若さでした。

昭和10(1935)年、広瀬武夫の生まれ故郷である大分・竹田に、広瀬を祀った「広瀬神社」が創建されました。近年でも、平成21(2009)年の例大祭では、海軍兵学校の卒業生が出し合った募金で胸像が奉納され、その翌年には、竹田市立歴史資料館広場に立像が建立されました。立像の制作を担当した彫刻家の辻畑隆子さんは、「これからの子供たちに学んでほしいのは広瀬武夫のように、自分自身を厳しく律すること。そういう価値観に変えてもらうことを願って制作しました。」と話したそうです。無私に徹した明治の武士道を貫いた人物だからこそ、現代でもこのように祀られているのではないでしょうか。


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