日本史偉人伝

岡倉 天心

2016.06.15

今回は、明治時代に「日本の美」の伝統の擁護に立ち上がり、日本文化の復興を使命とした人物、岡倉天心を紹介します。

岡倉天心は、横浜で貿易商店を営む父・勘右衛門と母・このの次男として、文久2(1862)年12月26日に生まれました。本名は覚三といいました。貿易港として急速に都市化した横浜で、幼い天心は7歳頃からアメリカ人に英会話を習い始めました。ところがある日、父に連れられて川崎大師の参詣に出かけた際、東京と神奈川の境界に立てられていた標示杭の漢字を一字も読めず、これを恥じた天心は国語の学習をさせてくれるよう父に迫ったそうです。ここに天心は「日本の美」を伝える第一歩を踏み出しました。

天心は、13歳で東京開成学校(のちの東京大学)に入学し、英文学を専攻しました。また、この頃から興味を持ち始めたのが、奥原晴(せい)湖(こ)のもとで学んだ文人画と、森春(しゅん)濤(とう)に学んだ漢詩でした。美術・文芸への興味が湧いたのはこの頃からでした。

ちょうどその頃、文学部に講師として来任したアメリカ人のアーネスト・フェノロサとの出会いは、天心にとって大きなものでした。フェノロサは、英語に堪能な天心を通訳とし、天心もまたフェノロサの研究対象に興味が湧くようになりました。大学卒業後も、天心とフェノロサの交流は続き、文部省の音楽取調掛を経て内記課勤務となった際、再び美術に携わることになりました。明治17(1884)年には、「秘仏」とされていた、法隆寺夢殿にある救世観音像を、フェノロサとともに目にすることとなります。それまでは祈りの対象であった仏像に、天心とフェノロサは美術作品としての美を発見したのでした。

天心は、明治22(1889)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)を開校します。その講師には彫刻家の高村光雲をはじめとし、日本画、木彫の第一人者が着任しました。天心も自ら「日本美術史」を講ずるなどし、美術界の革新に努めました。そんな中、人事の問題から、天心と十数名の教職員が東京美術学校を辞職する事件が起こります。それにもめげずに、明治31(1898)年には一緒に辞職した橋本雅邦、横山大観らとともに日本美術院を設立しました。大観らは、それまでの日本画とは違い豊かな色彩で描き、美術界に波紋を起こしました。

明治34(1901)年、インドを旅した天心は、イギリスの支配下にあって苦しんでいる人々を目の当たりにします。帰国後、天心はそれまでに書き上げていた「東洋の理想」という英文原稿に加筆し、西洋文明によって東洋の民族が次々と独立を奪われている現状を憂い、「アジアの兄弟たちよ、東洋の文化と伝統に目覚めよ、そして、西洋文明からわが身を守れ」と訴えました。

また、その後アメリカに渡った天心が、羽織袴姿でニューヨークの街を歩いていると、アメリカ人の若者から呼び止められ、「おまえは日本人か、支那(中国)人か?(Which-nese are you, Japanese or Chinese?)」と面白半分に尋ねられました。天心はその若者たちをじろりとにらみ、こう応じました。「おまえはアメリカ人か、猿か、ロバか?(Which-kee are you, Yankee, Monkey or Donkey?)」若者は返す言葉もなく引き下がったそうです。異国にありながら、アジア人、日本人として一歩も引かない天心がそこにいました。

日露戦争後、「日本人は好戦的な国民である」という誤解が欧米諸国に生まれました。天心は、英語で「茶の本(The Book of Tea)」を出版し、「日本は平和友好の民族であり、西洋列強こそ好戦的である」と、皮肉を込めて書きました。この本は欧米諸国で広く読まれ、日本語訳もされましたが、日本で読まれたのは天心の没後でした。

大学を出たのが19歳のとき、東京美術学校の設立が26歳のときと、世に出るのが早かった天心でしたが、大正2(1913)年9月2日、行動を同じくした横山大観や下村観山に看取られながら、この世を去ったのも52歳という若さでした。岡倉天心の残した日本美術院は、現在も日本画の美術団体としてその活動を継続しています。


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