日本史偉人伝

柳田国男

2014.08.25

 皆さんは、「民俗学」という学問を知っていますか?主に民間伝承に基づき、自国民の生活文化の歴史を研究するのが、民俗学です。今回は、日本の民俗学を学問として体系化した、柳田国男について紹介します。

 柳田国男は、明治8(1875)年、兵庫県に生まれました。9歳の頃、一家が転居した先で大凶作を目の当たりにし、「飢饉を絶滅しなければならないという気持ちが、私をこの学問(民俗学)に駆り立て、かつ農商務省に入る動機にもなった」と晩年に述懐しています。また、13歳の頃、茨城県で医師を開業した兄の鼎(かなえ)に引き取られましたが、そこでの体験は、単に親元を離れたというだけではなく、西日本と東日本の違い、村のしくみや家族の成り立ちなどにかなりの違いがあったことなど、のちの民俗学研究に関わるような事柄について、強いインパクトがありました。

 大学で農政学を学んだ柳田は、農商務省の役人として、明治後期の農村のありさまをつぶさに見聞し、下層農民が土地を失い、賃金労働者として離村していく現状を、危機として受け止めました。柳田は、個人の幸福は生活の本拠である家の安定にあると考え、中農養成策を提唱して農村の再建をはかろうとしました。

 同時期に、後の民俗学研究に繋がっていくような民間伝承に関する論考をまとめています。柳田の代表的な著作である、岩手の遠野地域の民間伝承をまとめた『遠野物語』もこの頃に書かれたものです。柳田の問題関心は、氏神(同じ地域・集落に住む人々が共同で祀る神道の神様)信仰を、人々の国民的な自覚、意識形成に生かそうとするものでした。さまざまな民間信仰や民間伝承の研究によって、様々な民間信仰の核が氏神信仰にあることを明らかにするとともに、氏神信仰が日本土着のものとして過去から伝えられたものであり、一国的レベルで共通のものであることを示そうとしました。また、そのことを人々が意識することが、当時進行していた西洋化のもとで、国民としての意識を堅持していくことになると考えていました。

 また、農村を共同体として結合させているのは、共同の祖先に対する思慕の情を基礎として成立した神社にあると考え、当時政府が進めていた神社合併(合祀)事業に反対しました。神社の統廃合は、氏神に対する人々の「心からの崇敬」を失わせることになり、中止すべきとの意見を表明しました。

 こうした官僚時代の体験から、柳田は、農村に古くから伝えられてきた伝承・祭り・風習などの生きた生活慣習などを発掘し、採集することによって、文字に表現されない民衆文化の研究へと向かいました。そのきっかけとなったのは、大正12(1923)年に発生した関東大震災でした。当時、新渡戸稲造のすすめで国際連盟委任統治委員として活躍していましたが、その職を辞し、ジュネーブから帰国しました。そして、震災の被害のみならず、日本社会の直面している困難な状況を目の当たりにして、「本筋の学問のために起つ」との決心を持って自宅で民俗学に関する第一回の談話会を開き、以後、日本民俗学の確立に向けて力を注ぎました。

 民俗学とよばれる新しい学問の分野を柳田は新たに切り開き、基礎を固めましたが、その根底にあったのは、学問によって世を救いたいという強い願いでした。明治以降の近代化とさまざまな社会変動によって、それまでの日本人の生活文化や生活のあり方が国民的レベルにおいて解体しつつあり、それを再度、どう形成していくかという点について柳田は関心を持っていました。柳田は、国内外の学問的蓄積を生かしながら、人類学・民族学(民族の文化・社会の研究)の方法を、日本の伝統的な社会と文化の研究である民俗学に適用したのです。

 柳田の研究業績は、昭和37(1962)年から刊行された『定本柳田国男集』に収められていますが、現在、国内のみならず海外においても、日本人の生活文化研究のための資料として高い評価を受けています。

 表面的には移りかわるようにみえる文化の根底に、一貫して流れている「常民」の心を明らかにする民俗学。もちろん、現在も大学をはじめとする研究機関で研究が続けられています。歴史や地理に興味のある皆さんの中で、これを読んで興味を持った人がいたら、大学進学後に民俗学を研究してはいかがでしょうか?


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