日本史偉人伝

児玉 源太郎

2015.09.13

今回は、日露戦争において満州軍総参謀長を務め、台湾総督も歴任した児玉源太郎を紹介したいと思います。

児玉源太郎は、嘉永5(1852)年2月25日、徳山藩士児玉半九郎の長男として生まれ、はじめは百合若と名づけられました。戊辰戦争の際には、徳山藩の官軍部隊「献功隊」の小隊長を任せられ、函館・五稜郭での「大川口の戦い」で初陣を飾りました。戊辰戦争後は、大阪に新設された兵学寮に進み、軍人としての人生を本格的に歩んでいきました。

西南戦争の際、乃木希典が連帯旗を失った責任を取り切腹を図ろうとした際に、とどまらせたのは児玉でした。「貴様とおれとは同じ長州藩に生まれて学んだ武士道に二つはないはずじゃ。武士が過失をしても、腹さえ切ればそれで責任が解除されるということはおれは教えられておらぬが、貴様はそういう武士道を教えられたのか。」

筋道の通った児玉の言葉に対して乃木は返す言葉がなく、切腹を思いとどまったのです。この二人は、後に日露戦争の旅順戦で力を合わせることになります。

明治20(1887)年、児玉は近代軍事学を教授する陸軍大学校の初代校長に就任しました。校長でありながら、半分生徒という立場で、ドイツより招いたメッケルからドイツ式の近代戦術を学び、後の日露戦争ではその機動力を活用した戦術を駆使しました。メッケルは帰国の際、「将来、陸軍の児玉か、児玉の陸軍か、と呼ばれるようになろう」と児玉を評したといいます。

日清戦争では、児玉は陸軍次官として後方任務を任されました。その時に出会った人物が、後藤新平です。戦争後に兵が日本に戻る際、伝染病などが持ち込まれることを防ぐために検疫を行いましたが、その際の実地責任者が後藤でした。検疫の実施は、一日も早く故郷に帰りたい兵からは恨まれることもありますが、そのような批判などを児玉はすべて自分のところで封じ込め、実務は後藤に任せ、必要な費用は融通しました。このことにより、後藤は児玉のことを全面的に信頼するようになります。

日清戦争後の台湾統治も、児玉が台湾総督、後藤が民政長官と、この2人を中心として進められました。児玉の方針は、軍部主導ではなく、民政を軸にした統治を行うというものでした。課題であった匪族(武装集団)の討伐に関しては、帰順する者には仕事を与えるといった寛大な策を取りました。また、現地人を積極的に登用し、政治に参加させました。「手ぬるすぎる」という批判もありましたが、児玉は、欧米人のような搾取をするのではなく、「同じアジアの民族として」台湾の民生向上に尽くすという志を持っていました。現在も台湾の人々が親日的感情をもっているのも、このような歴史があったからです。

日露戦争では、当時の内務大臣という地位から何のためらいもなく陸軍参謀次長への降格人事を引き受け、満州軍総参謀長として腕をふるいました。旅順戦では、ロシア側の兵力などの情報を正確に把握できず、苦戦を強いられます。二〇三高地の攻略戦では、突撃する兵士の後ろから砲撃することを命じ、「あそこにいる日本兵が、この砲弾と一緒になって二〇三高地をとるんじゃ!」と鬼気迫る様子で言葉を発し、兵士もまた「鬼」となって泣きながら砲弾を打ち続けたといいます。そして二〇三高地を奪取し、奉天会戦ではメッケルから学んだ戦術によってロシア軍総司令官クロパトキンに恐怖心を与え続け、勝利を得ました。

日露戦争が終わって間もない明治39(1906)年7月23日、児玉源太郎は惜しまれながら55年の生涯を閉じました。5日後の葬儀では、激しい雨に打たれながら盟友の棺に寄り添い続ける乃木希典の姿がありました。

歴史に「たら」「れば」と考えればきりがありませんが、児玉源太郎があと10年生きていたら、大正・昭和の日本は全く違っていたと言われます。軍人としての立場と国をまとめる指導者としての立場、どちらにおいても手腕を発揮した根底にあったのは、国のために己のすべてをかけた「無私の心」でした。

 


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