日本史偉人伝

小村 寿太郎

2016.01.08

今回は、外交官で、日露戦争での講和条約「ポーツマス条約」締結時に全権大使としてロシア側と交渉を行った、小村寿太郎を紹介します。

小村寿太郎は、安政2(1855)年9月26日、日向国飫(お)肥(び)(現在の宮崎県日南市)に、飫肥藩士小村寛、梅子の次男として生まれました。幼少時は、祖母の熊子からの感化を受けて育ち、数えで7つの時、藩校振徳堂に入り、15歳までここで学びました。振徳堂での8年間に小村の人格と学問の基礎は固められました。

開成学校(東京大学の前身)卒業後にはアメリカへ留学し、21歳でハーバード大学法学部を卒業しました。当時の希望は外交官ではなく、弁護士でした。帰国後の明治13(1880)年に司法省に入省し、英米の法律文書の翻訳に携わり、翌年には判事になりました。明治17(1884)年、英文の堪能な者と法律の素養のある者を求めていた外務省から打診があり、外務省に移りました。小村は当時30歳でした。

10年間ほどは上司に認められない時期が続きましたが、小村の非凡な才能を認め、抜擢したのは、外務大臣陸奥宗光でした。明治26(1893)年、陸奥は小村にアメリカ行きを打診しましたが、小村は北京行きを希望しました。この頃から日清戦争を意識していたものと思われます。

小村は、身長150cm余りで小柄でした。明治34(1901)年に起こった北清事変後の条約締結時には、大国の外交官もいる中で主導的役割を果たし、休みなく機敏に働く小村に対し、各国の外交官らは敬愛の念を込めて、陰で「ネズミ公使」と呼んだそうです。

明治37(1904)年、日露戦争が勃発しました。戦時中の小村の役割は、第三国の干渉を未然に防止し、日本が外交上不利な立場におかれないことでした。まず、同盟国イギリスには随時ロシアとの交渉の経過を伝えました。実際、ロシアがイギリスに調停を行わせようとしていたため、それに応じないようイギリスに要請しました。戦争勃発の原因はロシアにあったため、それもはっきりイギリスには説明していました。アメリカ・ドイツに対しても同様に要請し、同意を得ました。ロシアの同盟国、フランスからは調停しようと試みられましたが切り抜け、三国干渉の二の舞は回避できました。

陸軍の旅順・奉天戦勝利、日本海海戦の完勝によって勝利が決定的になった頃、日本政府は講和の準備に入りました。ただ、世界一の陸軍国であるロシアが講和に応じることは考えにくいことでした。そこで、アメリカ大統領ルーズベルトを通して講和を促しました。小村は主席全権として講和への交渉に臨みましたが、難航しました。特に、樺太の割譲、戦費の賠償については、ロシア皇帝の「1ルーブルの賠償金も、1インチの領土も与えるな」との命を受けた、ロシア全権ウィッテと激しく対立します。日露戦争は実質的には日本の辛勝だったため、講和への交渉は困難を極めました。その中で小村は、ウィッテと交渉を重ね、樺太の南半分を割譲させることだけは認めさせました。この条約がポーツマス条約です。しかし、賠償金が得られないことを知った日本の国民は大憤慨し、日比谷公園などでは焼き打ち事件も発生しました。一方、小村は、交渉の疲労のためしばらく病床に伏しました。

また、小村は幕末に結ばれた不平等条約の完全是正という、もう一つの大きな功績を残しました。明治43(1910)年より各国と交渉を開始した結果、翌年に関税自主権の回復に成功し、各国との通商条約は全く対等なものとなりました。

不平等条約の完全是正を実現してわずか9か月後の明治44(1911)年11月26日未明、小村寿太郎は57歳という若さでこの世を去りました。ポーツマス条約の締結、関税自主権の回復という大きな仕事を成し遂げた小村は、逝去後、明治天皇も「小村がいれば」とのお言葉をもらされていたと、盟友であった桂太郎は聞いたそうです。小村寿太郎は、まさに日本のために心血を注いだ外交官でした。


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