日本史偉人伝

高杉 晋作

2018.04.15

今回は、吉田松陰から教えを受け、長州における尊皇攘夷運動の中心となった人物、高杉晋作を紹介します。現在、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」でもピックアップされている人物です。

 

高杉晋作は、天保10(1839)年、長州藩士であった高杉小忠太と妻・みちの間に長男として生まれました。保守的な武士の家系でしたが、藩校明倫館の形式的な学問には物足りなさを感じていました。そんな中見つけたのが、吉田松陰の主宰する松下村塾でした。久坂玄瑞らとともに学んだ高杉でしたが、父と祖父に反対され、「行っても良いが行動はするな」とクギをさされます。結果、吉田松陰亡き後の池田屋事件、禁門の変には参加しませんでした。

高杉が変わるきっかけとなったのは、文久2(1862)年、上海に行った際、半植民地状態になった清国内の様子を目の当たりにした経験でした。イギリス人やフランス人が街中を歩けば、清国人は道を譲るといった状態で、「属地」といった様子でした。アヘン戦争で取られたのは香港であり、上海は自国領でしたが、その様子を見た高杉は危機感を覚え、やるのはもう自分しかいないと奮闘します。

翌年、長州藩は下関沖を通る外国船に砲撃を行い、攘夷を決行しましたが欧米に敗れました。その翌年である元治元(1864)年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊が下関に来襲し、長州藩が敗れたとき、講和交渉の正使として四国代表と談判したのが高杉晋作でした。四国側は莫大な賠償金支払いと、下関のそばにある彦島の租(そ)借(しゃく)を要求しましたが、高杉は両方とも断固拒否しました。彦島租借を拒否したとき、高杉はわが国の歴史を神話から説き起こし、「本来、日本の地は寸土といえども朝廷のご所有、幕府・諸侯は単にお預かりしているにすぎぬ。私意をもって軽々しく処置することはできぬ」と言い、さらに、「あくまでも彦島要求を取り下げぬなら、長州全土を灰にしても戦う」と述べました。このときの高杉の表情、態度は一体どちらが勝者かわからないような悪魔のような恐ろしさだったと相手側が言っていたということです。

四国側は結局、双方ともあきらめざるを得ませんでした。海上の戦いでは勝つことはできても、地上戦となればこの高杉らを相手にとても勝利はおぼつかないと思ったのです。高杉の、欧米の強国を相手に一歩も引かない気迫がわが国の属国化・植民地化を阻止したのです。このとき通訳した伊藤博文は、後にこう語りました。「今にして思えば危ない所だった。高杉がいなければどうなっていたかわからなかった。彦島は香港や九龍(香港同様植民地にされた場所)と同じ運命に陥っていたかもしれず、まことに慄然たる思いがする」

その後も、高杉に困難が待ち受けます。第一次長州征伐で敗れ、命まで狙われて福岡まで逃れました。しかし、「松陰先生や久坂たちが命がけで戦い抜いたことを無駄にしてはならない」との思いで、元治元(1864)年の12月、小雪の舞う功山寺で、三条実美をはじめとする尊皇攘夷派5人の公卿に「ただいまより我々は立ち上がります。お別れに盃を下さい。これから長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」とあいさつし、出陣しました。実はこの時、「今はどうにもならない」と、高杉の創設した奇兵隊は参加に躊躇しました。しかし、高杉を先頭にした隊が決起し、日本の将来のため戦う姿を目にして、大田・絵堂(山口県美東町)の戦いに勝利し、藩の体制も安定し、明治維新へ突き進んでいきました。

高杉晋作は、慶応3(1867)年4月14日、「これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ。しっかりやってくれろ。」と言葉を残し、この世を去りました。27歳の若さでした。高杉晋作のように、命を燃やし尽くした人々のおかげで明治維新が成し遂げられ、日本はここまで発展できたのではないでしょうか。


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