今回は、明治維新時の「維新の三傑」の一人として活躍し、「五箇条の御誓文」の発布にも携わった木戸孝允を紹介します。
木戸孝允は、天保4(1833)年、現在の山口県萩市に藩医であった和田昌景の長男として生まれ、小五郎と名付けられました。家庭の事情から、向かいの桂家に養子に出され、桂小五郎という名前になります。少年時代は病弱な面がありましたが、10台に入ると、藩主の毛利敬親の前で『孟子』の解説をして褒賞を受け、長州藩では注目される存在となりました。
嘉永2(1849)年、藩校明倫館で山鹿流兵学の教授であった吉田松陰に兵学を学びます。その際、松蔭から「事をなすの才あり」と評されたほどでした。嘉永5(1852)年には、剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され、江戸三大道場の一つとされていた練兵館に入門して一年後には塾頭を務めるほどの腕前でした。同時に、吉田松陰の同志として行動を共にすることもありました。
文久3(1863)年、藩命により京都に上った桂は、久坂玄瑞らとともに活動を行っていきます。しかし、八月十八日の政変で京都から追放され、翌年以降は京都に潜伏して情報収集に努め、勢力回復のチャンスをうかがいました。そんな中、坂本竜馬の斡旋で薩長同盟を締結し、翌年の第二次長州征討を迎え討って幕府軍を退け、大政奉還を経て長州藩の復権に成功して明治新政府を樹立するに至りました。この頃から、木戸孝允という名前を使うようになります。
新政府において木戸が携わった大きなものに、五箇条の御誓文の起草があります。五箇条の御誓文とは、明治天皇によって示された、明治という新しい時代の政治の方針です。発布にあたっては、旧福井藩士由利公正が案を作成し、旧土佐藩士の福岡孝弟が修正して草案ができました。しかし、草案を見た木戸は、これに根本的な修正を加えます。草案では、「このような公議政治を目指す」ということを、天皇と諸侯が「誓い合う」という形になっていました。しかし、木戸は、そのような形では諸侯と天皇が契約書を交わすようで、わが国体の姿にはふさわしくない、そうではなく、天皇が諸侯・群臣を率いて神々に向かって誓う、その誓いに諸侯が従う、そういう誓いの形にすべきだとしました。
また、草案には、大名らの話し合いによって政策を決定することが書かれていましたが、新たな政府では、国民国家に向けて動いていました。せっかく王政復古を成し遂げたのに、このままでは意味がないと木戸は考えたのです。木戸は、副総裁の三条実美に「七百年来の積弊(慣習)を一変し、三百諸侯(諸大名)をしてあげてその土地人民を還納せしむべし」と訴え、それができなければ明治維新の意義はないに等しいと上申します。そうしてのちに行われたのが、大名が持っていた土地・人民を国に返させる版籍奉還でした。
さらに木戸は、御誓文の中に「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」という一条を設け、国際法に基づく国際交流の道を明示しました。近い将来、欧米と肩を並べ、そして必ず追い越すという気概にあふれていました。
明治新政府の重臣として活躍していた木戸でしたが、征韓論による対立で西郷隆盛らが政府から去ると、次第に大久保利通による独裁体制の政局に不満を抱き、次第に政府の中枢からは遠ざかっていくようになりました。また、長年の心労で心の病を患っていたそうです。
明治10(1877)年5月26日、もうろうとした意識の中、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後に、木戸孝允はこの世を去りました。最後まで国家のことを考えていた人物でした。