校長の道徳授業

真実はこうだ!-日本人の誇りを取り戻すために<その7>

2015.05.20

―28名が長年侵略戦争を企んできた?― 

内容―「共同(きょうどう)謀議(ぼうぎ)」をでっち上げて絞首刑にした許しがたい暴挙

 

 本年は、戦後70年という節目の年です。その戦後という時代をがんじがらめにしてきた歴史観がありました。それを東京裁判史観と言います。東京裁判で一方的に決めつけられた歴史観のことです。

東京裁判で日本の歴史が断罪され、日本は侵略国家であり、日本人は悪辣(あくらつ)な侵略民族だとされ、私たち日本国民はそれを正しい歴史だと思い込まされてきました。しかし、東京裁判史観は、真実ではなかったのです。

 戦後という時代には、国家の根幹にかかわる「嘘」が2つありました。歴史の嘘と憲法の嘘です。どちらも国家の存続には最も重要な要素です。

 憲法の嘘については、「真実はこうだ」シリーズ特別編で4回にわたって勉強しました。

11月号からは、また元に戻って、4月から連載している「真実はこうだ!」で、もう一つの「戦後の嘘」である「歴史の嘘」の根拠となってきた東京裁判を、引き続き検証してきました。

 今回は、でたらめな東京裁判の中でも、最も「大嘘」と言っても差し支えないと思いますが、「共同謀議」について検証し、高校生の皆さんと共に歴史の真実を探求したいと思います。

 

 第2次世界大戦で戦勝国となったアメリカを中心とする国々が、日本国内はもとより中国や東南アジア各地で、敗戦国となった日本の軍人など1068名を、裁判とは名ばかりの一方的な国際軍事裁判で、いわゆるBC級戦犯(通例の戦争犯罪)として処刑しましたが、特に東京裁判では、A級戦犯28名が裁かれました。

 A級戦犯というのは、

(イ)「平和に対する罪」

(ロ)「通例の戦争犯罪」

(ハ)「人道に対する罪」

で裁かれ人々のことです。国家の指導的立場にあった人たちです。

 「平和に対する罪」は、「法のないところに犯罪なく、法のないところに刑罰なし」とする法律の基本(これを罪刑(ざいけい)法定(ほうてい)主義(しゅぎ)といいます)に反しています。

つまり「平和に対する罪」などはそれまで国際法にはなかったのです。法のないところに犯罪を作って有罪判決を下したのです。

しかも、このことは、法はさかのぼらないとする「事後法禁止」の法律の原則にも反しています。後出しで法律を作って以前の行為を裁いたのです。

これらのことは、シリーズその3で勉強した通りですが、その「平和に対する罪」というのは、「侵略戦争」を「共同謀議」して「計画・準備・開始または実行」したというのがその内容です。

「共同謀議」というのは、A級戦犯として訴追された28名全員が共同で、昭和3年1月1日から昭和20年9月2日までの間、世界を支配するために侵略戦争を企んで、共通の計画を立てたりそのために準備をしたりして、そして指導者としてまたは共犯者としてその侵略戦争を開始、実行してきたということです。

 この共同謀議を犯罪とする考え方は、英米法の観念であって国際法にはありません。ですから、「共同謀議」が「平和に対する罪」の構成要件になっていること自体、東京裁判がいかにでたらめな名ばかりの「国際軍事裁判」であったかがわかるでしょう。

 内容も嘘だらけです。

 第1に、昭和3年から昭和20年までの17年間に、内閣は17回代わっています。反対党の内閣になったことも何度もありました。反対党が政権を取って、前内閣の方針を引き継ぐわけがありません。

28名全員が17年もの長期間にわたって、しかも、彼らだけですべての国策を計画し決定し実行してきたというのですから、いかにこの裁判がいかさまだったかわかるでしょう。日本がまるで独裁国家だったとでも言いたいのでしょうかね。

 

 第2に、この17代の内閣のすべてで閣僚だった人は一人もいませんし、平和に対する罪とされたのは満州事変、支那事変、大東亜戦争についてですが、これらが勃発する時の3つの内閣の2つ以上で閣僚だった人すら一人もいません。軍部の指導者だった人にしても、その当時国策決定の立場にあった人は誰もいません。この状況でどうすれば継続して共同謀議などできるのでしょうか。絶対に不可能です。

 例えば、大東亜戦争開戦時の首相だった東條英機被告人は、満州事変当時は参謀本部の課長に過ぎなかったし、支那事変当時は関東軍の参謀長でしたから、満州事変や支那事変を共同謀議して国策を決定する場に参加することはできません。

 第3に、「共同謀議」で侵略戦争が行われたとするなら、「マスタープラン」つまり「共通の計画」がなければなりませんが、判決文ではそれを「昭和11年(1936年)8月11日の廣田(ひろた)弘(こう)毅(き)内閣で決定した『国策の基準』がそれに当たる」としています。

 この「国策の基準」では、満州国の安定させること、そしてソ連の脅威が大きくなってきていましたからこれらに対する措置に迫られて策定されたものです。どこにも他国を侵略することなど一字一句書いてありません。 

 判決文では、この「国策の基準」によって「ソ連との衝突をもたらすことが確実になった」としていますが、これは明らかに事実と違います。

昭和15年には、日ソ中立条約を締結しています。国策の基準策定は昭和11年ですよ。これによって対ソ戦争が確実になったなんて歴史無視も甚だしい。「国策の基準」が策定されて4年後に「中立条約」を結んで仲直りしているのですからね。

ソ連は昭和20年8月9日、終戦直前に、突如日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告して満州や千島に攻め込んだのであって、ソ連こそ卑怯極まりない侵略国家と言わなければなりません。今も北方領土は不法に占拠されたままです。

判決では日本がソ連を侵略したとなっているのです。事実は全くその逆です。

 さらに判決では昭和6年の満州事変も侵略戦争としていますが、繰り返しますけど、そのマスタープランとされた「国策の基準」決定は5年後の昭和11年ですよ。5年後に策定される計画に基づいて侵略戦争を行ったということであって、当時の日本の指導者たちは予知能力があったのですかね。あきれるばかりです。

 

 とにかく昭和21年5月に始まった東京裁判は、23年11月4日から判決公判に入りました。判決文は1200ページに及ぶ長文で、朗読するのに7日間かかりました。

 そして、全員に有罪判決が下され、うち7名は絞首刑となったのです。

 共同謀議で有罪とされたのは、松井石根大将と重光葵元外務大臣を除く23名(大川周明訴追免除、永野修身、松岡洋右の2名は裁判途中死亡)、うち6名は絞首刑でした。

松井大将はこの共同謀議でではなく通例の戦争犯罪で絞首刑となりましたから7名が絞首刑です。

 従容(しょうよう)として刑場の露と消えていった7名の英霊は次の方々です。

板垣征四郎元陸軍大臣

木村兵太郎元陸軍次官

東條英機元首相

土肥原賢二元第7方面軍司令官

廣田弘毅元外相・元首相

武藤章元陸軍軍務部長

松井石根元中支方面軍司令官

 

 

 

 

 


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