日本史偉人伝

滝廉太郎

2015.05.27

今回は、わが国の近代音楽史上、最初の作曲家である、滝廉太郎を取り上げます。

滝廉太郎は、明治12(1879)年8月24日、東京に生まれました。父の吉弘は内務省の役人であったため、生まれて3年後には東京から横浜へ移りました。明治時代の横浜は西洋文化の輸入港で外国人も多く、日本で一番新しい生活様式を持っていました。二人の姉はバイオリンやアコーディオンを習っており、そのような新しい西洋楽器に親しむ家庭の雰囲気があったことが伺われます。小学校に入学した年の8月には父の転勤に伴い富山に移ります。雪国の生活を体験したことが、後の作品「雪やこんこん」「お正月」の作曲に影響を与えているともいわれています。さらに東京、大分と移り住み、明治25(1892)年に大分の竹田に移りました。

竹田に落ち着いた廉太郎は、この地で音楽の道へ進むことを決意します。父には「音楽は婦女子のすること」と強く反対されましたが、従兄の滝大吉の理解もあって、父はようやく音楽学校への進学を認めました。進学に際しては、16歳で東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学を許されましたが、この若さで合格することは前例のないことでした。この時期の日本は、日清戦争の戦勝に沸き、その後の三国干渉に憤っていました。その時期ではありましたが、廉太郎は、一生懸命に音楽の道に励み、特にピアノと作曲に没頭しました。

明治33(1900)年、東京音楽学校の研究科に在籍していた廉太郎は、ドイツに留学することになります。しかし、廉太郎は出発延期願を出し、1年後に出発しました。理由は定かではありませんが、その時期に「四季」「荒城の月」「箱根八里」など、世に知られた多くの作品を残しています。特に、「荒城の月」は、日露戦争で活躍した広瀬武夫中佐がその楽譜を廉太郎から受け取り、ロシア人の友人に見せたところ、「これは本当に日本人の作曲か!」と感心したといいます。また、「荒城の月」は、西洋のホテルやレストランで日本人が来店した際、サービスとしてレコードがかけられたといいます。また、ベルギーでは賛美歌にもなったそうです。

翌年の4月6日、廉太郎はヨーロッパへと向かい、ドイツの首都ベルリンには5月18日に到着しました。10月1日にはライプチヒ音楽学校の入学試験を受け、無事合格しました。現地では本場の音楽を堪能することができましたが、11月にオペラを見に行った際にひいた風邪をこじらせ、入院することとなりました。日本の音楽界からも大きな期待をかけられていた廉太郎でしたが、明治35年の7月に帰国することになりました。帰国の際には最年少でもあった廉太郎のために、日本人留学生の仲間により送別会も行われました。

帰国後、東京の住みなれた気候によって健康を取り戻したかに見えましたが、病状はなかなか回復までには至りませんでした。その中でも、廉太郎は作曲活動を続けました。その後、両親のいる大分へ帰り、気分のすぐれている際に「荒磯」などの曲を作曲しました。

明治36(1903)年6月29日、滝廉太郎は短い生涯を終えました。23歳という若さでした。

滝廉太郎の作品は、西洋的な音階に日本人としての感性を持って作曲したからこそ、日本人のみならず西洋の人々をも魅了したのではないでしょうか。「花」「月」などの自然を題材にした曲を作曲できたのは、自然と共存して生きている日本人ならではのものだと思います。


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