日本史偉人伝

乃木 静子

2016.03.10

今回は、日露戦争で第三軍を指揮した、乃木希典の妻であった乃木静子を紹介します。

 

乃木静子は、安政6(1859)年11月6日、薩摩藩士湯治定之の娘として生まれ、結婚前までは阿(お)七(しち)という名前でした。結婚に際し、希典は名前が良くないということで、自分が号としていた静堂の一字をとり、静子と改名させました。結婚の際、希典は、「御身は薩摩藩士の子で、わしは豊浦藩士の子である。だから、人情も習慣も違う。殊(こと)に、乃木家は厳格な家庭であるから困難を嘗(な)めるであろう。御身のことゆえ大丈夫とは思うが、辛抱出来そうにないなら盃(さかずき)(婚礼の儀式)はせぬ方がよいと思うが…。」そう言うと、静子は、「如(い)何(か)様(よう)な困難に遭いましても、辛抱致します。」と答えました。「私の後ろには、堂々たる薩摩武士がついている」という自負心がありました。

実際、結婚後は、姑の寿子とうまくいかない場面もあり、苦労しました。別居するという時期もありましたが、後には姑の寿子が「静子は気性は強いが、心の正しい立派な人だ」と近親者に言うようになり、静子も「できたお義母様でしたから、いろいろと勉強になりました」と語っていたということです。

希典が香川県にある第11師団の師団長として単身赴任した際、東京からはるばる訪ねていきました。しかし、希典はこの訪問を「突然である」という理由でかたくなに拒否したのです。やむなく静子は雪の中を旅館まで引き返したそうです。後年、静子がたたずんでいた松の木の傍らに石碑が立てられました。その松を「妻返しの松」といいます。

日露戦争が開戦後、出征する夫の希典、息子の勝典・保典に高級化粧品店で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入して贈りました。当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりでしたが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈りました。当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2か月分に相当します。静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、戦死した後のことを考えての、軍人の妻として、母親としての家族を想いやる愛の表現であり、たしなみでもありました。

また、静子は宇治山田へ行き、伊勢神宮において「神威をもって旅順を陥落させ給え」と、夫が苦戦している旅順戦の勝利を必死に祈りました。何十分かたつと、「汝の願望は叶えてやるが最愛の二子は取り上げるぞ」という声が聞こえました。静子は「二子のみではなく私ども夫婦の命も差し上げます。どうぞ旅順だけは取らせて下さいませ」と哀願しました。日露戦争において、出征した長男の勝典は南山の戦いで戦死、二男の保典も二〇三高地の争奪戦で戦死しました。夫妻の間に子どもは二人だけでしたが、寺内正毅陸軍大臣が報告方々慰めに行くと、「よく死んでくれました。これで世間の母人方に申し訳が立ちます」と毅然と応えました。後に静子は「私の心願が神明(神様)に通じてかしこくも天照大神様がまさしくご神託を授け給うたものと確信します」と述べています。

明治天皇が崩御あそばされた明治45(1911)年9月13日の午後8時過ぎ、遠くで鳴り響く弔砲を聞きながら、夫の乃木希典とともに、静子も自決を遂げました。53歳でした。その姿は、正座の姿勢のままうつむきに倒れ、衣服などの乱れもありませんでした。これには、夫・希典の介助があったといわれています。

 

乃木静子となり、夫に従って自決するまでの三十数年間、静子は軍人の妻として、乃木家に仕える嫁として、二人の子供の母として、明治という時代を辛抱強く生き抜きました。最後の希典による介助は、軍人である自分を支えてくれたことへの最後の礼儀であったのかもしれません。


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