日本史偉人伝

真木 保臣

2018.10.15

今回は、前回紹介した久坂玄瑞と、禁門の変で最後の行動をともにした、真木保臣を紹介します。

真木保臣は、文化10(1813)年3月7日、福岡県にある久留米水天宮の神職であった父・旋臣、母・柳子の間に生まれました。神職の後継ぎができたということで、大変喜ばれたそうです。幼いころ、『絵本太平記』を読み、後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成を生涯の目標として仰ぎ、尊皇の志を立てました。正成が足利高氏と湊(みなと)川(がわ)の戦いで敗れた5月25日には、毎年楠公祭を行い、現在も続けられています。

父が34歳の若さで急死したため、11歳で久留米水天宮の宮司となった保臣は、20歳の時に上京し、勅許を得て従五位下和泉守に任ぜられました。久留米藩士ではありましたが、朝廷の直臣たる自覚を固め、以後、王政復古を熱願し勉学に励みました。

真木は、同志と藩政改革を企てましたが失敗し、嘉永5(1852)年より10年間の幽囚謹慎生活を送りました。その間、弟の理兵衛とともに建てた「山梔(くちなし)窩(のや)」という場所に近所の青年が集まるようになります。保臣は、『国史略』を用いて歴史を中心に教え、作文や作詩を勧めました。ここに集まった同志が、後に維新運動にも参加していくことになります。そしてこの間、ペリーが来航し、日本は国難を迎えます。

保臣は、薩摩藩主の島津久光が上洛することを知り、京都に向かいます。しかし、向かった先で寺田屋事件が起こり、その際、薩摩藩に捕縛されて久留米藩に引き渡され、獄につながれてしまいました。

短期間ながらも、京都において志士活動を行った保臣は、尊皇倒幕運動のリーダーとして押し上げられました。久留米藩は朝廷から内勅を受け、保臣をゆるし、意見を求めました。保臣は、「久留米藩を挙げて尊皇倒幕に立ち上がる時であります」と、きっぱり進言しました。しかし、当時の久留米藩主有馬頼咸(よりしげ)はなかなか態度を明確にしません。そこで、保臣は、脱藩を敢行し、同志とともに再び上洛を果たしました。保臣は、朝廷の直臣となり、幕府内で尊王攘夷派の中心人物であった公卿の三条実美(さねとみ)や、討幕の路線を進んでいた長州藩とともに、孝明天皇の大和行幸を計画しました。孝明天皇が奈良の橿原神宮に行幸し、初代神武天皇に攘夷のご決意を誓われ、そのまま天皇自らが軍を率いて一挙に幕府を倒そうという大きな企てでした。謹慎中に、保臣はそのような構想を描いていたのです。

しかし、保臣たちを待っていたのは、会津や薩摩と組んだ、朝廷内公武合体派によるクーデター、八月十八日の政変でした。保臣も追われる立場になり、七公卿とともに長州へ向かいました。

保臣は長州藩に対し、京都における長州藩の地位を回復し、朝議をふたたび討幕に戻すことを建言しました。長州藩はこれを受け入れ、元治元(1864)年、京都に向けて進軍を始めました。これが禁門の変(蛤御門の変)です。久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに果敢に戦いましたが力及ばず、もはやこれまでと悟った保臣は、髪の毛一束を切って地中に埋め、辞世の短歌を短冊にしたため、切腹を遂げました。

「大山の 峰の岩根に 埋めにけり わが年月の 大和魂」

(私の肉体は滅ぶが、天王山の峰の岩陰に埋めた髪とともに、私が生涯持った大和魂は生き続けるであろう)

幕末は、真木保臣のような多くの志士が活躍した、まさに「激動」というにふさわしい時代だったのです。


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