日本史偉人伝

杉原千畝(ちうね)

2011.11.28

第二次世界大戦期、ヒトラーの率いるナチス・ドイツは「反ユダヤ主義」を旗印に、ヨーロッパ各地で“ユダヤ人狩り”を繰り広げました。日本は当時、ドイツと同盟関係にありましたが、その中で多くのユダヤ人を救った日本人がいました。その一人が、外交官であった杉原千畝氏です。

昭和14(1939)年11月、杉原はリトアニアの首都カナウス(当時)の日本領事館に領事代理として赴任しました。当時39歳でした。ヨーロッパでは、同じ年の9月1日にドイツがポーランドに進攻し、第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされました。

 翌昭和15(1940)年7月27日、領事館の執務室の窓から何気なく外を眺めた杉原は思わず立ちすくみました。おびただしい人の群れが領事館の前を埋め尽くしていたからです。ポーランドからやってきたユダヤ人難民でした。混乱を防ぐために、その中から5人の代表を選んでもらい、話を聞きました。「日本領事館へ行けばビザがもらえるということを聞いて来ました。どうかビザを発行して下さい。」こう話し始め、それぞれの窮状を訴えました。ビザとは、人が外国へ入る場合、その国の領事などから旅券の検査を受け、安全に入国できるよう裏書きしてもらうことです。ユダヤ人たちはソ連経由で日本に上陸し、そこから第三国に落ち延びようと考えていました。杉原は数人分のビザなら発行の権限がありましたが、何百枚、何千枚となると外務省の許可が必要です。その場では、自分自身の考えだけでは即答できないことを告げ、その日の話し合いは終わりました。

翌日、杉原は外務省に電報を打ちました。しかし、外務省からの訓令は、無条件のビザ発行には「ノー」でした。杉原は悩みました。いくら今この目の前にいる人たちを「何とかしてあげたい」と思っても、外交官として、指示に背いて行動するわけにはいきません。眠れぬ夜が続きました。考え抜いた末、「ここに百人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね。それでも私たちはやろう。」と、ビザの発行を決意しました。

 8月1日の早朝、杉原の姿は日本領事館の外にありました。彼は大声で叫びました。「みなさん方に、日本の通過ビザを発行することになりました!」一瞬の沈黙をおいて、大きなどよめきが起こりました。抱き合っている人もいます。さて、それからが大変でした。一枚一枚手書きでビザを発行していきます。気の遠くなるような作業でした。昼食抜きの日々が28日間続きました。このとき発行されたビザを持って日本経由で各国に脱出したユダヤ人の数は六千人に達するとも言われています。

 杉原はのちに語っています。「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。」

 杉原は戦後帰国した後、事実上外務省を解雇され、貿易会社に勤めるなどしました。昭和43(1968)年8月、突然イスラエル大使館から電話があり杉原は出かけました。なんと、大使館の参事官として日本に赴任したニシュリ氏が、カナウスの領事館で話し合いをした5人のうちの1人だったのです。ニシュリ氏は杉原に一枚の紙を見せ、「これを覚えていますか?」と聞きました。そこには、かつて杉原が書いたビザがありました。ボロボロになっても大切に持っていたそうです。また、杉原は翌年にイスラエルを訪れました。迎えてくれたのは、やはりカナウスで話し合いをした5人のうちの1人であった、バルハフティック宗教大臣でした。

昭和60(1985)年1月には、イスラエル政府から杉原に「諸国民の中の正義の人賞」が授けられました。これはイスラエル建国に尽くした外国人に与えられるものです。日本人としてはもちろん杉原が初めてでした。

杉原千畝氏はその翌年、86歳で生涯を終えました。日本では、その後になって知られるようになりましたが、助かったユダヤ人は一生杉原千畝という外交官を忘れないでしょう。


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