日本史偉人伝

夏目漱石

2015.02.14

前回は、かつて五千円札の肖像に描かれていた新渡戸稲造を取り上げました。今回は、ほぼ同じ時期に千円札の肖像に描かれていた夏目漱石についてご紹介します。

まず、「漱石」はペンネームであることを皆さんに最初にお伝えしておきます。この「漱石」という言葉は、「漱石枕流」という四字熟語から付けられています。西晋の時代の人物、孫楚が「石に枕し流れに漱ぐ(くちすすぐ:うがいをするという意味)」と言うべきところを、「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまい、誤りを指摘されると、「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためだ」と言ってごまかした故事から転じた言葉です。

漱石の本名は金之助といいます。夏目金之助は、慶応3(1867)年1月5日、江戸牛込馬場下横丁(現在の新宿区)に、五男三女の末っ子として生まれました。明治の元号が改まる前の年に産まれたため、明治の年号がそのまま漱石の満年齢になります。幼い頃は養子に出され、本当の両親と一緒に暮らすことのできない時期を過ごします。7歳で生家に戻り、11歳の頃には漢文調の論文『正成論』を友人との回覧雑誌に発表しました。実質、金之助の最初の作品と言えるでしょう。小学校卒業後は中学校に進み、さらに大学予備門から東京帝国大学(現在の東京大学)へ進み、英文学を専攻しました。その頃、金之助は俳人の正岡子規と知り合います。ペンネームである「漱石」を使い始めたのは、この頃からでした。

明治28(1895)年、金之助は愛媛県の松山中学に就任します。この頃の様子を小説化したものが、『坊ちゃん』です。翌年には、熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)に赴任します。この頃の教え子には、物理学者の寺田寅彦がおり、金之助は寺田らに俳句も教えていたようです。明治33(1900)年には、文部省より英語研究のためイギリスへの留学を命じられます。妻子を日本に残したままの留学、また、孤独感などから神経衰弱に陥った時期もありました。帰国後、東京帝国大学で講師をしていましたが、40歳で一大決心をし、一切の教職を辞し、新聞社に入社し、本格的に小説家としての道を歩み始めました。

漱石は、『虞美人草』『三四郎』をはじめとした多くの作品を世に送り出しました。その中で、明治45(1912)年、明治天皇が崩御あそばされます。その際、乃木希典夫妻も殉死しますが、漱石は、その後に書いた作品『こころ』の中でこの点についてこう表しています。「…夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのはひっきょう時勢遅れだという感じがはげしく私の胸を打ちました。」「…御大葬の夜、私は何時もの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。」これらは、『こころ』の中の登場人物である「先生」の遺書として書かれている部分です。しかし、明治という時代を生きた漱石の思いが込められているようにも感じられます。

漱石は新聞社入社後の10年間で、上記の『こころ』を含め、多くの長編小説を書き上げました。晩年も床に伏しながら小説を書き続け、大正5(1916)年12月9日、小説『明暗』の執筆半ばにして50歳で生涯を終えました。明治期を代表する作家であった夏目漱石の作品は多くの日本人に読まれ、教科書にも作品が載るなど、現在も国民的作家として評価されています。


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