沖周(おき あまね)と大島の人々

2016年10月15日

先日リオデジャネイロ オリンピックも閉幕し、次の2020年の東京オリンピックに向けて世界の期待が高まっています。

東京でのオリンピックが決まった時のことです。その際に決戦投票の相手となったのは、トルコのイスタンブールでした。それにもかかわらず、「東京」のアナウンス直後に、トルコのエルドアン首相は安倍首相に駆け寄り、抱擁で祝意を表してくれました。そのようなトルコとの友好関係のきっかけとなったのが、今回紹介する沖周と大島の人々の行動です。

 

沖周は和歌山県東牟婁(むろ)郡大島村の村長でした。明治23(1890)年、オスマン朝(現在のトルコ)の軍艦、エルトゥールル号が大島の樫野崎灯台で座礁・沈没し、586名の乗員が死亡するという事故が起きました。このとき69名が必死で大島海岸にたどり着き、一人が大島の樫野崎灯台に助けを求めました。大島は串本のそばの人口3,000ほどの小島で、知らせを受けた沖村長は直ちに行動を起こし、村民を指揮して救護活動に全力を尽くしました。同時に、郡役所と県庁に連絡を取るために使者を派遣し、医師を手配して負傷者の手当に当たらせました。村人たちも裸同然の人々に衣服を与え、あたたかい食べ物を提供しました。家に数羽ほどしか飼われておらず、年明けなどの祝いでもない限り食材とされることはない鶏も提供されました。また、海中を漂い体の冷え切ったトルコ人を一人一人布団に寝かせ、若者二人が褌一つになって左右から体を寄せて温めました。

大島村では、これまで遭難した者があれば、誰でもどこの国の人でも助けてきました。半農半漁の決して豊かではない暮らしの中から、人々はできる限りのことをして献身的努力を惜しまず生存者を励ましました。村を挙げての救助活動に、トルコ人の乗員はみな涙を流して感激しました。

また沖村長は、海上に漂う遺体の捜索に尽力しました。連日船を出し、280体余りを回収し手厚く弔い慰霊行事も行いました。収容する際も遺体を大事に扱い、一体ずつ丁重に収容しました。生存者はやがて神戸に移され、明治天皇の命により軍艦「比叡」「金剛」の2隻でトルコに無事送り返されました。

時代は流れ、イラン・イラク戦争中の昭和60(1985)年3月17日、イラクのフセイン大統領が、「3月19日20時以降、イラン領空を飛行する航空機は、民間機であれ全て撃墜する」との声明を出しました。その当時、イランには200人余りの日本人がいました。日本は「安全の保障ができない」と救援機の派遣を見送り、イランをはじめ他国の航空機には便数に余裕がなく、自国民を乗せることで精いっぱいの状態でした。

そんな中、トルコのオザル首相の決断により、トルコ航空の航空機を日本人のために優先して派遣してもらえることになりました。「危険を冒してでも、わが国は、日本人を救出するために救援機を飛ばさねばならない。それが、わが国にできる恩返しだからだ。我々は、日本人が和歌山沖で沈没したエルトゥールル号の救助に尽くしてくれたことを忘れてはいない。」という、オザル首相をはじめとした関係者の考えからでした。救援機を出すトルコ航空のパイロットも客室乗務員も、全員が救援機への搭乗を希望しました。トルコの方々は、約100年前の出来事を覚えていてくれたのでした。

平成23(2011)年3月11日に起きた東日本大震災。その際、約3週間という最も長期間、支援・救助活動に当たったのがトルコ救助隊の32名でした。一方、同年10月23日、トルコ東部でもマグニチュード7.2の大地震が発生しました。その際には多くの日本の団体が救援活動を行うべくトルコに入りました。日本とトルコは、先人から受け継がれた強い絆によって現在も結ばれているのです。

日本史偉人伝 | 投稿日: 2016年10月15日 | 投稿者: 編集

最新記事

カテゴリ

アーカイブ