元田 永孚(ながざね)

2016年08月16日

今回は、井上毅とともに教育勅語を制定するうえで重要な役割を果たした、元田永孚を紹介します。

 

元田永孚は、文政元(1818)年10月1日、熊本藩士元田家の長男として生まれました。父は側用人を勤める家柄であり、11歳で藩校時習館に入り、15歳にして本格的に学問を始めました。それ以降は義理に基づく実践の学としての儒学を学んでいきました。そして、20歳にして時習館居寮生となり、藩のエリート養成コースに進みます。塾長の横井小楠らの指導を受け、24歳で退寮するまで学問に打ち込みました。

元田は、横井小楠らとともに、藩政改革派であった実学党の一員として活動します。しかし、横井が積極的な開国論を唱えるようになると、距離を置く人物もおり、元田も実学党から離れました。安政5(1858)年、元田は家督を継ぎ、京都留守居・高瀬町奉行などを歴任しました。

明治維新後に藩内での意見対立から一時隠退し、私塾「五楽園」を開きました。その後の明治3(1870)年、藩政において実学党が復権したことで永孚は藩主侍読に推挙されました。さらに明治4(1871)年には、明治天皇の侍読として進講を行いました。これは、当時政府中枢にいた大久保利通の考えにより、国学の平田鉄胤、洋学の加藤弘之とともに、漢学の担当者として任命されたのでした。

明治天皇に対するご進講は、日本の国体(国のあり方)の尊厳、君徳の根本、忠孝仁義の倫理、国家民族の治乱盛衰の歴史などでした。元田は、国家を治める根本は祭祀、道徳、教化にあり、何よりも大切なものは、国家指導者の姿勢・心得であるとし、君主の基本姿勢として、神々や先祖及び国民に対して敬畏・謙譲・慈愛の心をもち、常に内省して徳性を磨くことを繰り返しご進講しました。時には、「このままでは天皇としての資格はつきませんぞ」と、厳しく叱りつけるようなことまでして教育したと伝えられています。

明治天皇は、政府から重要問題の奏聞がある際には、まず元田の考えを聞かれました。元老筆頭の伊藤博文は、明治天皇の背後に必ず至高顧問がいると推察したところ、それは元田でした。明治天皇にとって元田は師であり、父であり、心の支えでもありました。

元田が重大な役割を果たしたものとしては、井上毅とともに完成させた教育勅語があります。井上が原案を完成させたのちにアドバイスを求めたのが、同郷の大先輩でもある元田でした。実はこのとき、自分なりの草案を作成していた元田でしたが、井上の案を見て、自身の勅語案は没にしました。井上の案を見て、「これなら大丈夫」と判断したのだと考えられます。2人はそこから真剣なやり取りを開始し、井上が言うところの「萬(万)世に伝えて愧(恥)じざる之聖諭」(永遠に恥じることのないすばらしい文章)を明治天皇の名において世間に発表できるように何度も何度も細部を検討し、明治23(1890)年に教育勅語は発布されました。

元田永孚は明治24(1891)年、教育勅語が世に出たまさに2か月後に、流行性感冒で死去します。この時、彼の病がすでに絶望的なのをお知りになった天皇から、急きょ「男爵」の爵位が授けられることとなりました。伝達の使者に立ったのは、井上毅でした。病床に駆け付けた井上から、元田がこの知らせを聞いたのは、まさに死の一週間前でした。その時、元田は涙を流し、手を合わせて、「この篤きご恩は、草葉の陰から報い奉る」と繰り返して感謝の意を伝えたそうです。

元田永孚と井上毅の、熊本藩出身の2人が作り上げた教育勅語は、残念ながら現在は多くの日本人はその内容は知りません。しかし、その精神は確実に私たちの両親、祖父母、先祖によって受け継がれてきています。私たちもその精神を子孫に伝えていきましょう。

 

日本史偉人伝 | 投稿日: 2016年08月16日 | 投稿者: 編集

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